オープンソース等のコミュニティについて考える

hagi に投稿

コミュニティって考えはじめると結構難しい

Wikipediaでは、Communityは"A community is a small or large social unit who have something in common, such as norms, religion, values, or identity."と書かれている。「コミュニティとは、小規模あるいは大規模の社会的な単位である。一般的にはコミュニティは何らかの規範や宗教、価値観、アイデンティティを有する」といった訳で良い気がするが結構あいまいな概念だ。この記事では、出入り自由の社会的集団といった意味で使いたい。

関心がある人が自由意志で集まってワイワイと意見を言い合う会合は楽しいのだが、だいたいそれだけでは、数回あるいは10回程度が限界である。その段階を越えて続けられている会合は、中心人物が引っ張る形態、あるいは、運営委員会のようなものを立ち上げて継続的に続くシステムが機能している必要がある。人が集まる以上、好き嫌いは出るから分裂は起きる。組織の維持が自己目的化すると何をやっているのだかわからないような事態も起きる。

大きくなれば、行動規範(code of conduct)を決めて節度が守られるようにしなければ機能しなくなるし、ルールができると居心地が悪いと考える人も出る。例えばオープンソースの場合は、最初はこんなソフトウェアがあったら良いと思いませんか、という思いから実装が生まれ、それが受け入れられてファンが増え、その周辺でビジネスが生まれて世に受け入れられていく。インターネットのRFCと似ていて、(不具合があっても)動くものがあってその先に進んでいく。育つ前に消えてしまうものは多い。そして、ある程度育つと理念を明確化する必用に直面する。Webサイトを一番簡単に作れるツールを目指すのか、拡張性の高さを目指すのかといった議論は、宗教論争のように内輪もめの原因になりやすい。アドホックな方法をゆるく認めるといつのまにかソフトウェアがボロボロになってしまっているというケースもしばしば見るし、理論的な整合性を重視しすぎて使い勝手が損なわれてしまうケースも起きる。コミュニティが拡大し続けている時は見えなかった問題が、成長が止まると急に対立の源泉になることもある。

コミュニティとイベント(結構金がかかる)

コミュニティを意識するのは、イベントが開かれる時だ。Drupalだと一番大きいのはDrupalCon、コワーキングに関わるコミュニティを意識するのはCoworking EuropeとGCUCである。もっと身近なものだとDrupalMeetupや不定期開催中のサードワークプレースに関する意見交換会など。出席者として出る時はお客様気分なので、準備が丁寧にされているか、出席者への希望が満たされるように設計されているかが重要になる。北米のDrupalConは3,000人を超えるイベントで、初めて参加する人もエキスパートも企業の人も商売の人も来るから、関心も様々で、逆にその多様性が満足につながる面もある。ただ、Drupalにつながっているという一点だけで成り立っている。Drupal Associationは会計を開示しているので昨年度の内容を見てみると、その年間のPLが約5億円と大きい。その内イベント収入が3億強、イベント支出が1.6億程度ある。イベントで3億円の売上が立つというのもすごいけれど、コミュニティを支えている強力なツールはdrupal.orgというサイトである。

drupal.orgに行けばソフトウェアのリリース、寄贈されたModuleやThemeがセキュリティ関連情報やテスト結果など膨大な情報が蓄積されている。オープンソースにつきもののコンテンツ品質のばらつきもあるが、品質チェックは非常に立派なレベルで、私がDrupalに信頼を寄せる理由はこのサイトにある。もちろん、相当なコストがかかっていて、委細の分析は行っていないが、営業費のITで2000万円以上、販管費のITで1300万円以上を使っている。オープンソースのコミュニティと言えど、小さな会社よりは遥かに大きい。

コワーキングに関わるコミュニティの方はDrupal Associationほど透明性の高い運営体は見られないが、500人が集まるようなイベントが開催できるCoworking EuropeやGCUCの経済規模は小さくない。本格的なコミュニティをホストするということは決して簡単なことではない。イベントだけではどうしても一過性のものになり、継続的に関わる場がないとやがて廃れてしまうように感じている。関わる人達にとって、定期的に見に来ないではおられないようなサイトと、イベントというFace to Faceの人が直接関わるような場、その両面が補完的に機能するような設計をしないと成功しないように感じられる。もちろん、金が回っていかないといけない。

インターネット以前のコミュニティと変わった事

例として、drupal.orgを上げたけれど、昔であればDrupal会館といった建屋を建ててそこに人が集まってくるというのがコミュニティの定番だったのだと思う。今でも、寺院や教会等の宗教施設はそのコミュニティの重要要素となる。会社のオフィスも相当程度従業員に心理的な影響を与えているだろう。

自由に出入り可能なコミュニティの場合、その人の心の中から忘れ去られる事でコミュニティはそのメンバーを失う。コミュニティの維持・活性化を考えると定期的なイベントでメンバーがそのコミュニティの一員であることを思い出してもらわないといけない。デジタルの時代になって必ずしも○○会館やイベントに通う人数で勢いを測るのが現実的ではなくなって来ている。

コミュニティから得られるアウトプット

オープンソースのコミュニティの場合は、そこに属する事によって情報量が増え、自分が成長したいというケースが多いだろう。どのコミュニティに属すると有利あるいは楽しくやれるだろうかという視点で入退会を決める。ソフトウェアの場合だと、その上で作ったシステムが何らかの付加価値を生むわけだから収入に直結する場合もあるし、経済的な視点で自分の競争力を高める事ができる。

コミュニティが大きくなるとネットワーク効果が出てきて、例えばソフトウェアの潜在能力の差より利用者の数の差が意味を持つケースも出てくる。多くの人が使っていれば多少難があっても利用者の少ない技術より所期の結果を得る為のコストが小さくなるケースは確かにある。だから、類似のオープンソース間の宗教論争的な対立は実際に意味があるのだ。勢力が大きければ様々な不具合も目立たなくなる。

コミュニティの運営側に立つと、コミュニティメンバーに対して幸せを拡大するような価値を提供しなければ支持されないし、ネットワーク効果が得られるように規模を追求しないわけにはいかない。最初はどんなに小さくても構わないのだが、影響力を高めるには規模がいる。

新しい価値を訴求するコミュニティが立ち上がっていくためには

今、「アジアと日本のコワーキングの未来」というイベントの準備をしている。コリビングのすばらしさを信じている人達が、「世界を旅しながら働く「デジタルノマド」が注目を集めています」という呼びかけから始まる案内文を起案してくれた。私自身「デジタルノマド」って良いなと思っていて、収入を得ながら世界の今いたい場所に移動しながら生きて行くような生き方へのあこがれがある。私は多くの人がそういう生き方ができるようになったらもっと世の中が平和になるような気がしている。

組織に属する働き方を選んだとしても「デジタルノマド」になれる人はいるだろう。風が吹けば100人に1人位はそういう生き方ができるかも知れない。そういう働き方を体験してみるためのRemote Yearのようなサービスもある。しかし、企業は基本的に支配・被支配の構造で成り立っている。単一の企業に依存していれば「デジタルノマド」という生き方は砂上の楼閣のようなものだ。コワーキング/コリビングスペースは、フリーランスが助け合え、互いに成長可能なコミュニティをホストしているので「デジタルノマド」への道を示しているようにも感じられる。

一方で、多くのコワーキングスペースは月額契約で成り立っていて、そのコミュニティの規模は小さい。300人のコミュニティであればかなり大きい方と言える。Drupalの事例を見ると、世界レベルで自律的にコミュニティを支えていくには、相当なコストがかかる。ちなみに、drupal.orgのアカウント数は130万人、バグフィックス等に貢献しているユーザー数は10万人以上である。「デジタルノマド」とまでは行かないまでも自由な生き方のために有用なコミュニティが立ち上がれば、世界の人口の1%位、7000万人位のユーザー登録があるようなサイトがあってもおかしくない。もちろん、千里の道も一歩よりだから、まずは数人のコミュニティから全ては始まる。しかし、それが大きなうねりを生むためには、スケールを考えておく必要がある。そのためのキーがサービスプロバイダー側の採算化の支援になるのか、個々の生き方働き方が低コストかつ高品質になるような支援になるのか、それらの組み合わせか、あるいはもっと別の要素が必要のかは様々な取り組みはあるがまだ正解を見つけた人はいない。イベントを通じて一緒に力を出し合って挑戦してみようと思う同志が見つかったら良いなあと願っている。

勢いでやってみるというのも大事だけれど、冷徹に複数の未来を読まないわけにはいかない。コアとなるパワフルなチームが形成できるかが成功の決め手となるだろう。やはり、人、あるいは人の組み合わせが重要なのだろう。