オンライン礼拝で考えた

hagi に投稿

この前の日曜日は私の通う砧教会では礼拝堂を閉鎖して、Google Meetを利用して礼拝を実施した。多少、プログラムを詰めたりしたが、基本的には通常の礼拝と同じプログラムで牧師も司会者(私)も自宅で参加した。一応、何とかなったのだが、どうも、これでは足りないと感じたのだ。

一番感じたのは、オンライン礼拝はテレビでのイベントの生放送の感じに近いということだ。ちょっと不謹慎かもしれないが、記念式典のライブ放送が退屈に感じるのとちょっと似ている。今週はヨブ記5章で、連続ものの5回目となる。通常の礼拝堂の礼拝だと、信者は毎週来るのが原則になっているが、オンライン配信を公開した事で、これまで一度も砧教会に足を運んだことのない人が2人いたのだ。普段の会衆は、「ああ、5章だな、前回は出席できなかったけど、連続ものだから欠席した自分が悪いので話は飛ぶのは我慢しなくちゃな」と思うのだが、初めて出た礼拝で5章から始まったらわけが分からない。長年の信者であれば、ヨブ記のことは概ね知っているから、ああ、この牧師は5章をこういう風に解釈するのかという気持ちでのぞめるかも知れないが、初めての人だったらちんぷんかんぷんだろう。それでも、礼拝堂で他の会衆が真剣に聞いている中にいると、ああ、わからないけど、どうやら大事な話らしいなというのは感じられる。

何が言いたいのかと言えば、いかにオンライン礼拝が通常の礼拝堂で行われる礼拝の代替手段であっても、外から見たらテレビのライブプログラムと変わらないという事だ。この認識を持たないと新たな参加者を迎え入れることはできない。

連続テレビドラマのコンテキストで考えると、最低限「前回のおさらい」があって、途中から見た人でも気持ちが入るステップを準備しないと退屈する(退出する)。例えば、礼拝前に予習ページ(例えばWikipediaのヨブ記)があって前奏を流している間に目を通しておくとか、地図情報とか、そのシーンを描いた絵画とか、何か手助けが欲しい。さらに、特に砧教会の礼拝は結構講義に近いような雰囲気があり、批判的な聖書学の観点もある。聖書に書いてあることの意味や意義を理解しようとするのと同時にどんな事実があったのか、なぜそういう記述になったのか、書いた人が込めた意味は何だろうかという考察も入る。知的興奮はあるけれど、前提知識が無いとなんのことだかわからないときもある。私はいつもワクワクしながら聞いているのだが、それは礼拝堂で周囲にいる会衆が一斉に牧師の話に聞き入っているという雰囲気の中にいるという特殊な環境で起きる精神状態という側面があると思う。砧教会は厳粛な建物ではないが、場の持つ力というのは厳然として存在し、オンライン礼拝では機能しない。

礼拝に出席し続けるというのは特別な体験である。一週間に一度牧師の説教を聞き、その中に含まれる自分の気がついていなかった真理(の気配)に触れて、より良い人生に近づいているような気持ちになれるのだ。今のままのオンライン礼拝では、一会衆として参加した時に同じ体験が起きる気がしない。

今は、教会の役員として、中の人としての役割も担っているから、教会に来る人、オンライン礼拝に参加する人に、「よき知らせを伝えよ」=福音宣教を助ける働きをしなければいけない。嘘をつかない、騙さない、といった人間としての当たり前の倫理を守りつつ、どうすれば、新しい教会の形を目指せばよいのか、新たな挑戦が課せられたと思っている。