コロナ禍で発見したこと

先週、自教会の牧師が会堂から説教をやった。2ヶ月強前にオンライン礼拝を始めてから最初の経験だった。

6月7日はもともと会堂礼拝を再開する予定だったこともあり、奏楽も入ったし、わずかながら会衆も入った礼拝だった。人によって感想は違うだろうが、リモート参加の私にとってはそれまでのオンライン礼拝と全く異なるものだった。会堂で会衆が入っていれば、どうしてもそちらを見て話す。それまでは、PCの画面を見ながら、オンライン参加者を相手に説教しているから、こちらを向いていると感じたが、先週は会堂でやっている礼拝をTVで視聴しているという感触を禁じ得なかった。

今日は思うところがあって、他教会のオンライン礼拝を視聴した。Facebook LIVEで主日礼拝に参加したのだが、会堂で礼拝が行われているのを配信しているのでやはり体験としては参加というより視聴に近い。向き合う関係にはなく、遠くの景色を見せられているだけなのだ。もちろん、説教は説教で、メッセージは届いてくるし礼拝に参加したといってもおかしいとは思わないが、やはり外から見ている感抜群である。

自教会も会員の高齢化は深刻で、簡単に会堂に来ることのできない人は増えている。だからオンライン配信は望ましい未来の形だとずっと思っていた。無いよりマシじゃんという感じである。しかし、先週と今週の体験で私はそれは健常者の傲慢であることに気づかされてしまった。リアルに参加している人と視聴者側にいる自分の間に深い溝、あるいは意識していない差別が起きていることに気がついてしまったのである。

オンライン礼拝は、不自由を超越できる可能性を持っているが、使い方を間違えると大変危ない。2つの側面があって、もちろん技術的にオンライン礼拝に参加できない人、快適に参加できない人を遠ざけるという面もあるが、リアル礼拝とオンライン礼拝を混在させてしまうと、リモート参加者に排除感、疎外感を与えてしまいかねない。

会堂の礼拝をオンライン配信するのは、録画して見るのと変わらないのである。

オンライン礼拝は、従来の礼拝とは別のものと考えて取り組んだほうが良いと思う。そして、別のものとして取り組んだとき、アプローチは変わる。家から出られない人も、床から出られない人も、遥か遠方にいる人も、全てに公平を期する必要がある。もちろん、完全な公平や平等など実現できるわけはないのだが、私はそこに新たな未来があると感じている。

企業では、7割がオンライン会議をやれるようになったという調査がある。自教会では、オンライン礼拝の参加者は会堂での礼拝の参加者数と変わらないが、毎週出ている人が変わった。オンラインで出られなくなった人と、オンラインだから出るようになった人がいる。直感的に8割はオンライン礼拝に最低限の順応はでき、2割は参加できなかったという印象である。オンライン礼拝に移行するのが正しいとは決して思わない。コロナ禍の不自由があっても礼拝が守れるというのは福音だが、参加できなくて苦しんでいる人を見捨てるわけにはいかない。

しかし、リアルを優先してオンライン配信にまとめるのは恐らく不正解で、せっかく生まれた機会を台無しにするような気がする。ひょっとしたら、一緒にできる方法はあるかも知れないが、オンライン礼拝をやるならオンライン礼拝に集中して未来を探ったほうが良いと思う。私も含め、誰しも歳を取れば動きは不自由になる。いつもいつもリアルに参加できるとはいえない状態になっても、視聴者という立場ではなく参加者として参加できるようなオンライン礼拝が行われているような未来は私にとっては望ましい未来だ。