二元論と因果応報、そして確率

「三密を避ければ新型コロナには感染しない」は事実に反する。三密は悪で、善を行っていれば相応の報いがあるという考えは二元的で応報思想に合致する。実際には、感染確率を下げる効果しかない。

逆に言えば、確率的な効果はあり、事後計測は可能である。経営の世界では、望ましい未来を設定し施策仮説を立てて、検証して漸進していく。環境が激変しない限り、計測結果に基づいて改善していけば比較優位が得られるようになる。しかし、確率的に有利な選択をしたとしても個別の施策が成功する(勝てる)とは限らない。また、ベースとなる環境も変化するので、今日の時点で確率的に有利と思われる選択が、明日も有利であるかどうかは分からない。その「時」と無関係な真理ではない。

ちなみに、因果応報が確率的なものであることは実は誰でも気がついている。確率的に不利なことが明白な賭けに出ても、勝てる可能性があることを知っている。犯罪を犯しても捕まらない人は存在するし、どれだけ好ましい行いをしていても運に恵まれない人は存在する。

例えば新型コロナに感染してしまった人という集団の個々の行動を分析すれば、やはり好ましくない行動を取った人が多く見つかるだろうが、まだ感染していない人より遥かに慎重な行動を取っていた人も含まれている。確率はゼロではないから、実質的には本人には完全には制御できない。

本人にはどうにもできないことでコミュニティから排除(仲間と認めないと)することは差別である。差別が生じていることを放置すると、どんどんコミュニティ縮小していくことになる。純度が高いほうがより良いことになり、成功している人が正義となってしまう。企業も、国も、宗教団体もその罠に陥ると滅ぶ。因果応報が確率的なものでしかない点を忘れてしまっている状況にほかならない。

自分たちは特別でうまくいく、勝ちたいと思うこと自身は自然なことだと思う。しかし、実際には確率が支配するとは言え、行動が結果を導き出す。大きな数を対象に見れば、根拠のない迷信を信じて愚かな行動をとるのは馬鹿げている。むしろ、何が起きているのか、どういう確率的な因果関係があるのか追求するほうが合理的だ。自分の見たい未来になる可能性は、0でもないし1でもない。一つの正解はなく、仮説を立てて、現在の事後確率で評価した上で、決断するのがリーダーの責任となる。

大きく見れば、現在のマジョリティから判断する自己中心的な判断は滅びの道である。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」は、安易な判断を避け、真実を追求せよという勧めだと考えている。