デジタルトランスフォーメーション

hagi に投稿

情報処理学会の会誌「情報処理」の2020年11月に特集DX(デジタルトランスフォーメーション)という記事が出ていた。昨年から、総務省のテレワークマネージャー関連事業に参画するようになり、今年になってCOVID-19の激しい影響が出るようになって、改めてDXについて考えさせられることが多くなった。

今回の特集記事では、青山先生がリードしていることもあって、記事の中で、経産省の「DXレポート ~ITシステム「2025年の崖」克服とDXの本格的な展開~」が引用されている。その最初の部分、「検討の背景と議論のスコープ」の書き出しは以下の通りである。

あらゆる産業において、新たなデジタル技術を利用してこれまでにないビジネス・モデルを展開する新規参入者が登場し、ゲームチェンジが起きつつある。こうした中で、各企業は、競争力維持・強化のために、デジタルトランスフォーメーション(DX:Digital Transformation)をスピーディーに進めていくことが求められている。

経産省の研究会なので自然な前提なのだが、私はこの前提に疑問を感じている。だから、情報処理学会誌の特集をざっと斜め読みした時にどうも乗れなかった。特集記事では、「DX(デジタルトランスフォーメーション)とは何か?」から始まり、経産省の方の「政府におけるDXの推進施策と政策展開」、IPAから「国内におけるDX の現状と分析」と続き、アカデミアと富士通研、上場大企業等の後に日立とアマゾンウェブサービスの方の記事で締めくくられている。トーンとしては、時代は変化しつつあり、日本のエクセレントカンパニー、エクセレントピープル(笑)はどう対応しなければいけないかというコンテキストなのだ。言い換えると、追われる側の視点が強く、防衛的な印象があった。

それぞれの記事の内容には、含蓄があり示唆に富む内容も少なくないのだが、どうしても世界観に共感できなかったのである。

私は還暦を迎えたロートルであり、高校の頃にマイクロプロセッサが話題になり、入社した時に借金して100万円位を投じてPC98を購入した世代だ。UUCPでインターネットの世界に関わりを持ち、IP接続を実現したのは90年代になってからだから30代になっての話で、60年の人生のちょうど折り返し地点の頃の話だ。そんな私にとってDXといって想起するのはBTRONの実身/仮身モデルである。ちょっと飛躍的な解釈になるのだが、計算機内のデータと、データを指し示すリンクをモデル化したもので、実装が追いつかなかったが非常に優れたモデルが提唱されていたと思う。IOTをそのコンテキストで解釈すると、現実社会のモノに対して、デジタル世界でそれをrepresentする何かがペアで扱われる世界観ということになり、リアルな実身とデジタルな仮身がペアあるいは、実身に対して、視点に応じた多数の仮身が存在する世界観が手に届くようになるという話だと理解している。

現在の情報システムは、プロセスの自動化による生産性の向上を実利として追求してきたので、実身/仮身の対応で考えられているわけではない。データ中心アプローチ、オブジェクト指向などの抽象化は行われてきているのだが、モデルの進化を許容する技術が追いついてきていない。

一例を上げるとデジタル・ガバメントが象徴的だ。日本のマイナンバーカードは住民基本台帳という本来仮身でしかない情報を効率的に管理できるようにするためのシステムになっていて、管理というプロセスの方からしかモデル化がされていないので、拡張性が小さい。一方エストニアのeIDは自然人という実身に対する仮身の位置づけになっていて、視点と対象の分離が良くできている。何が言いたいかと言うと、既存のプロセス改善型の情報システムの延長線上にDXはないと私は思っているということだ。

別の観点から考察すると、政府の役割は第一の実身資源である民、次いで国土などの実身リソースの拡張性のある標準モデルを整備することだと思っている。しかも、日本独自であってはいけない。自然人という実身は国籍とは関係ないし、国土も物理的なロケーションに付随する管理主体情報に過ぎない。そもそも国は実身ではなく仮身なのである。仮身である自覚をもって、実身を支える立場を堅持してもらわないと困る。私は、それこそがデジタル・ガバメントの入り口だと思っている。

過去も現在も将来も権力闘争は無くならないだろうと思うが、DXをうまく進めれば、インフラのレベルは時と共に積み上げてやりたい合理化のコストを下げることが可能になる。権利に縛られて進化が損なわれるのも抑止できるだろう。

私は、オープンソースアプローチを強く支持したい。エストニアのデジタル・ガバメントのソフトはオープンソースとなっている。エクセレントカンパニー、エクセレントピープルはどう対応しなければいけないかというコンテキストで議論している間は、このパラダイムシフトに対応できないのではないかと憂いている。もちろん、単なる勘違いかも知れない。