三日前、アメリカ大統領選挙で考えるという記事で、「一度、敵と味方に分けて考えるようになってしまうと、問題を客観視できなくなる」と書いた。今日「多様性や反差別を呪文のように唱えながら、単一で全体主義的な社会を望み、違う考えの人を排斥する人達に思うこと。」というろくでなし子氏のブログを読んで改めて考えた。彼女は『彼らは一様に「差別は良くない、多様性が大事」と呪文のように唱えながら、違う意見であるトランプさんやトランプ支持者や、少しでもそう見える人を馬鹿にし、攻撃し、排斥しようとしている』と書いていて、私もその通りだと思った。トランプ氏はファクトチェックで多くの嘘をついているは事実と考えて良いと思う。意見の違いという問題とは別に責任ある立場の人が事実に反することを事実のように表明するのは糾弾して当然だと思う。ただ、トランプ支持者という括りで同類にするのはまずい。トランプ支持者の中にも事実に反することを事実のように表明するのは良くないと思っている人はいる。ただ、判断の優先順位は全く違う。強いアメリカ(美しい日本)を取り戻すためには、(少々の虚偽発言など)些末な問題だと思うことは止められない。
引用したブログでは『ドイツの某フェミニスト系ポッドキャストから、慰安婦像の問題について、日本のフェミニストとして意見を聞かせて欲しいと言う』依頼をうけて答えた後に『twitterを見たところ、「アンチトランプではなく、BLMを支持していないから」との事で』掲載がなくなったという話が書かれている。さらに彼女はアンチトランプでもないと主張している。ひねくれた視点で言えば、単に意見がつまらなかったからか尺の問題でカットが必要になったので理由に使ったという可能性はゼロではないが、理由としては筋が通らないように見える。ただ、彼女は『フェミニズムって、女性の選択の自由を尊重する事、ではないのでしょうか?』と書いているので、英訳すればPro Choiceを意味することになり、原理主義的な立場を取る人にとっては、Pro Life側の人を認めるだけでアウトだという解釈もある。
少し、距離をおいて見ると、「同じ」フェミニストでも、ちょっと踏み込めば全然同じ考え方ではないという事がわかってくる。
私は「一度、敵と味方に分けて考えるようになってしまうと、問題を客観視できなくなる」と書いた。これは「人をさばくな」というキリスト教の教え(に対する自分の解釈)に基づいて、トランプとか共和党支持者とか福音はキリスト教徒というような人を分類するような名前に基づいて人を裁いてはいけない、行動の是非は問うて良いが、人を裁いていはいけない(差別してはいけない)という意味だ。私は、それが好ましい考え方だと考えて、人を論破したり、関係断絶に至った自分史を作ってきた。見えている世界は、一人ひとり違うのである。
もう少し身近な話で考えると、安倍氏が「あんな人たちには、負けるわけにいかないんです」と叫んだのを思い出す。明らかに差別的な発言で、嫌悪感を持った人も多かったのが報道されていたが、「あんな人たち」のせいで日本は危機に瀕することになったのだと考える人もいる。ゲイは子供を産まないから存在自体が許せないという人もいる。(炎上確信犯もいると思うが)悪意は全く無く、自分の発言が非難されても、なぜ非難されたのかわからなくてキョトンとしているシーンもしばしば目にする。こんなことにも気がつくことができない愚か者というのがろくでなし子氏の『少しでもそう見える人を馬鹿にし、攻撃し、排斥しようとしている』が意味するところだと思う。
今回の大統領選挙の結果は非常に象徴的で、三日前は「バイデン50.5%、トランプ47.7%」だった。私は正直にホッとしたけれど、本当に双方にとって紙一重なのだ。個人的には「勝つためにどうするのが適切か」という問いが心によぎった時に、警報がなるようなセンサーが欲しいなあと思ったのであった。
画像は、ベラルーシの教会。情報量が少なければ、正しい情報を賢人、領主あるいは支配者に頼ることになる。情報量が増えれば、自分で判断しなければいけない範囲が広がる。一歩間違えれば、背景を見ること無く「勤勉でない連中はクズだ」と考えるようになる。教育制度は、極めて重要だ。