The long-term, world-changing promise of the blockchain(ブロックチェーンの長期的な社会変革の約束)を読んで引用しているEndnotes on 2020: Crypto and Beyondを読みEFFのA DECLARATION OF THE INDEPENDENCE OF CYBERSPACE、The Crypto Anarchist Manifestoに目を通した。Wikipediaの記事によればクリプト無政府主義マニフェストは1988年に書かれたものとされているが、インターネットが当たり前のものになったことで、20年余を経て無政府主義と言うより、国家という枠組みを超えるインフラとして徐々にこの考え方が機能し始めているのだと感じた。
ブロックチェーンは何らかの取引が存在したことを特定の裁定者を設定することなく証明する技術で、Endnotes on 2020: Crypto and Beyondの著者のVitalik Buterin氏は、第二世代暗号通貨とされるイーサリアムの構想者である。彼が「We wanted digital nations, instead we got digital nationalism」と書いているのは非常に興味深い。「デジタル国家を求めたのにデジタル国家対立を生んだ」とでも訳せば良いと思う。透明で公正で特定の人や組織に依存しない社会インフラを作ろうと思ったのに、激しい主導権争いと詐欺を生んでしまった。DRIES BUYTAERT氏は、オープンソースDrupalの創始者で同じく透明で公正で特定の人や組織に依存しない社会インフラを作ろうと考えているのだと思う。現実には、そのリーダーの思いを信頼してその世界での裁定者とすることでコミュニティが機能している。ただし、出来上がったソフトウェア資産はリーダーが去っても一定期間機能し続けるだろう。古き良き時代の幻想に基づくあらゆるナショナリズムは長期的には生き残ることはできないだろうと思う。
ブロックチェーンは非対話ゼロ知識証明の応用例で、暗号技術の応用例の一つだが、画期的なのは従来のデータというモノの暗号化による安全性の確保から取引というコトの安全性の確保に踏み込んだところにある。
Wikipediaのゼロ知識証明の記述で「ゼロ知識証明は確定的証明ではなく、確率的証明である」と書いてある。非常にコンパクトだけれど、本質的なポイントだと思う。
暗号通貨だけでなく、電子署名も一対一ではなく一対多のゼロ知識証明「非対話ゼロ知識証明(non-interactive zero-knowledge proof; NIZK) 」の応用例で、本人が署名したことを「高い確率で」証明する技術だ。
振り返ってみると、量子力学が出てきた頃(1926年以降)に「神はさいころを振らない」という常識は否定された。現実を徹底的に精査していくと決定的因果律は崩壊することが分かってしまったのである。積極的に捉えれば、理論の適用範囲の限界を理解して動く時代が来たということだろう。繰り返し引用するが「ゼロ知識証明は確定的証明ではなく、確率的証明である」。裁定者の誤謬確率より、確率的証明の健全性のほうが高ければそちらを採用したほうが良いという時代は実は約100年前に既に始まっていたのだろう。
一度、その時代に向かい合う覚悟を決めると、次にやることは、一定の期限を定めて許容誤謬確率を決め、人間の判断を放棄することだ。猛烈な心理的な抵抗があるのは自然だけれど、リスクを十分に評価しつつ踏み出していく以外の道はないだろう。言い方を変えれば、破滅的な自由は放棄するということでもあるだろう。non-interactive zero-knowledge proofは「誰かの手をわずらわせることなく行うゼロ知識証明」と訳しても良い。踏み込めば、人手のいらない事実の確認を実現できる技術といえる。もちろん、その適用範囲は限定的だが、使える分野では積極的に使っていくのが良いと思う。法を可能な範囲で言語で書かれたルールから検証可能なソフトウェアに入れ替えるということでもある。