黒歴史を思い出す

もう法的には時効だと思うが、今考えると人間として取るべきとは思えない行動を前職で取ったことが複数ある。

特に印象に残るのは、リストラの実施と子会社の精算の時だ。会社に属する身としては、その役割に応じてつとめを果たすのは当然だから、ある意味鬼になれる。振り返るとなんであんなことが言えたのだろうと思うことがある。もちろん、告白して許されることだとは思わない。

ナショナリズムと通底するが、組織が驚異にさらされたとき、組織と自分を同一視してしまったのだ。そうすると、人を切ることが正義に思えてきてしまうのである。そして、恐ろしいことにある種の快感になり、無敵感に溺れていく。人が駒に見えてきて、駒を自由に動かせるという幻想に溺れたのだ。同時に、自分は自分が駒扱いしている人間に支持されていると信じてしまう。罪深い。

すごく恐ろしいと思うのは、その時の自分には出だしの一歩はともかく一歩踏み出してしまうと迷いがなくなったことだ。

話題はそれるが、今日テレビで「自由で開かれたインド太平洋」という話が出ていて、安倍晋三氏の名前が出ていた。Wikipediaでは、「2016年(平成28年)8月に日本の第97代内閣総理大臣(当時)だった安倍晋三が提唱した、日本政府の外交方針」と書かれている。どういう思いで、彼が提案したかはわからないが、安倍晋三氏は日本の繁栄を心から願っていたと私は考えている。また、彼がその構想を提唱したことは、5年を経て中国の暴走?を抑止できる布石となっているように見える。私には、彼には相当な問題行動があると思うが、ある一面では彼の恩恵に浴していると考えている。

ナショナリズムや会社員としての行動規範は善意の塊なのだと思っている。吉と出ることも凶と出ることもあり、時間が経過しないとわからないことも多い。

しかし、視点を変えてみると、ナショナリズムや会社組織の常識は人権を蔑ろにする行為を生み出したり、平気で人を排除することができる邪悪な力にもなる。

もう9ヶ月間を越えて私は砧教会の役員会と正義をめぐる戦いを続けている。自分では自分の正義を信じているが、同時に金井美彦氏は自分の正義を信じているだろう。そして、彼の行動を見ている限り誠実で、善意に基づいて全力を尽くしているように見える。突き詰めれば、すれ違いの一点は6月7日の事実の捉え方だけなのだろうと思う。あえてわたしたちという表現を使うとすると、金井美彦氏と私は関わっている方々に大きなストレスを与えていて、様々な実害を生んでいる。

誰もが、和解は不可能だと言うが、虫が良いと言われても、私は共に歩む未来が来ると信じている。そのためには、わたしたちは躓いたポイントに戻らなければならないだろう。

彼は私に侮辱されたと怒っているし、彼がそう思って当然なことを私は行った。しかし、それは私の善意なのだ。善意であれば行為が許されてよいわけではない。同時に、彼が善意であれば約束を破ってよいということにもならない。少なくとも、一人でも認めない人がいる限り約束破りは許されてよいことはない。ただ、罪と罰は別問題だ。

生きている以上、前を向いて歩くしか無い。自分が犯した罪は消えることはない。決して、そこから逃げることはできない。

権力をもつものは常に慢心の驚異にさらされていて、人間を人間として見ることができなくなってしまうことがある。

どの罪も消えることはないが、他人の罪を許す自由は与えられている。勝てば良いなどと考えてはいけないと思う。