新生活58週目 - 「最も重要な掟」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第31主日 (2021/10/31 マルコ12章28b-34節)」。福音のヒントの冒頭には「きょうの箇所は(先週の箇所から)かなり飛んでいて」と書かれている。その間にエルサレム入城の話など気になる記事は多いが、祭司長らとの問答でイエスが「ヨハネの洗礼は天からのものだったか」と聞いている下りがある。人間イエスは、ヨハネから洗礼を受けていたので彼の弟子だった。ヨハネは何者かというのではなくヨハネの洗礼は何かを論点にしているのは興味深い。私は預言者の透明性を感じさせる話だと思っていて、洗礼者ヨハネは仲介者の一人であって、神の意思をこの世に反映させる代理人のようなものと感じさせる。しかし、人間はヨハネが特別な人だと考えただろう。人間イエスも自分のことをそういう位置づけにしていると感じられることがある。ベタニアのいちじくの話など、力の濫用に思われ、人間イエスも感情に支配される部分があった。言い換えれば公私があったように読める。今日の箇所は公のイエスを感じさせる箇所だ。

福音朗読 マルコ12・28b-34

 〔そのとき、一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。〕28b「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 29イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 31第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 32律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。33そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」34イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

福音のヒント(2)は、この箇所の出典として申命記6章に言及している。引用されている4節の前の3節には「イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。」と書かれている。神の掟は、この世での幸いを獲得するためのものと位置づけられている。当時のユダヤは既に独立を失っていたから、掟を守って再び独立を確立すべしというのが、右派の主張だっただろう。結構戦闘的、排他的な意味合いを感じる箇所でもある。

第二の掟の方は福音のヒント(3)にあるレビ記17章18節にあって、その直前には「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。」と書かれている。さらにそのちょっと前には「あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。」とある。少し後には「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれたもの同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者だったからである。」と書かれている。これはちょっと左派っぽい感じで、排他性が低く、力に頼らずに誠実に愛をもって接しなさいという掟に読める。この点は福音のヒント(4)でも触れられていて「イエスの時代のファリサイ派や律法学者の問題は、掟を守ることによって神の救いにあずかることができると考え、自分の力で救いを勝ち取ろうとしたことでした」と書かれている。

旧約聖書には、勇ましいことが多く書かれていて、強いものが美化されているが、意外とそうでないことも書いてある。

律法学者は第一の掟を求めたので、イエスに対して、第二の掟は第一の掟に劣後するのではないかと食い下がることもできただろう。あえて、そうすることなく第一の掟と第二の掟の掟をセットで捉えるところがすごかったのだと思う。私は、性格的に、でもいちばん大事なのは「あなたの神である主を愛しなさい」だと言いたくなるところがある。しかし「隣人を自分のように愛しなさい」を劣後させるのは適切ではない。一つだけではどうしても足りないのである。

神の命令は結構理不尽だ。自分の子供を殺せと命じるようなこともあり、どう考えても理不尽なことでも従うことが良いとされている。もちろん、そのような神の命令は「隣人を自分のように愛しなさい」と整合しない。「敵を滅ぼし尽くせ」と「寄留民を自国民同様に扱え」は両立し得ない。

現実には神の命令は下らない。人の思いを神の命令だと言いはる人がいるだけだ。まさに「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」がその象徴となる。

神の命令が下っていないのなら、実質的には「隣人を自分のように愛しなさい」が唯一の実施すべき掟となる。「あなたの神である主を愛しなさい」は具体的な行動を求めない精神論に過ぎない。律法学者が言及した「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」は、神が見ているという前提で平等、公平を期せということになる。神が何を求めているかを検討し尽くして、愛に生きよということになる。日本的に言えば、足るを知れという教えと読むことができる。

2000年前も今も、あるいはモーセの時代も、将来も、その掟は目指されるべきものだと思う。

恐らく「神の掟はこうである」と説くものはまがい物である。聖書にはこう書いてあるというのとは意味が違う。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」は「あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい」がなければ成り立たない。

私はこの一点をもって砧教会は病に冒された状態にあると考え戦っている。いくら牧師や長年の役員であっても教会総会で決めたルールをごまかしてはいけない。ルールを破っても罰が必要なわけではないし、全てが許されるのが望ましいが、罪を正しく裁けない組織に将来はない。罪は罪だ。誰も罰しなくても罪は消えない。私にとって、金井美彦氏や佐分利正彦氏、役員各氏のごまかしを糾弾しないことは「隣人を自分のように愛しなさい」から程遠い。罪に死ぬよりは悔い改めて新たに生き始めるほうが良いと信じている。同時に、長く待たねばならないとしてもあけない夜はないと信じている。私の糾弾の事実に向かい合わない限り、私を再び教会に受け入れることはかなわないのだから、彼らはずっと今も罪を犯し続けていることになる。その状態から脱したい。罪は憎んで人は愛せるようでありたい。

コメント

砧教会の2020年6月7日時点の役員が、金井美彦氏の総会決議違反を事実に向かい合うことなく会堂再開ではなかったと決めつけた通知を公開しておく。私は、総会決議の議事録に基づいて、違反は違反だと言っただけである。事実としては、違反があったか、なかったかのどちらかしか無い。

顛末は

砧教会役員会に向けて請願書を送ったがゼロ回答だった

砧教会2020年6月7日問題を再考する

の通りだ。

今日は、ついにZoomのメッセージ機能がオフにされていた。逃げ回っていればいつか問題が消えてなくなるとでも思っているのだろうか。

金井牧師

役員会の皆様

今回の件は、皆様とかなりの時間を掛けて考えて参りました。

一体何が問題だったのかと真剣に考えました。

正直なところ萩原さんが何故7日の事をそのように考えられるのか、未だに答えは見つかりません。

バラバラとメールを送る事は、ご迷惑かと思いましたので先日、■■さん、■■さん、■■さん、■■さん、■■の5人で意見を纏めてみました。

既に、2日間に渡って話し合いを持ちました。土曜日は翌日の役員会の為の話し合いでした。萩原さんの辞意のお申し出については、その理由や状況が全く分からない方もいらっしゃるので、急遽話し合いがもたれました。■■■■さんもパソコンの環境がないため、萩原さんの事をご心配のあまり雨の中わざわざいらしてくださいました。オンラインでの役員会全員参加は難しいので、一定の距離を取りながら集まりました。勿論、ズームでの参加の方もいらっしゃいました。萩原さんの辞意をお預かりするという意見はこの時から出ています。萩原さんがお辞めになる理由も全くない、萩原さんが牧師と相反する主張を仰っているが、どちらが正しくて、どちらが間違っていると言う結論も出せすことではないと、意見が一致しています。

また、役員会内では7日の判断は間違っていないという事は互いに確認済みです。確かにHPへ牧師や奏楽者の教会からと書いて下さいました。でも、いらしてしまった方達があった。後方に距離を保って座って頂いた。真実はそれだけです。7日当日に意図的に呼んだというのは萩原さんの思い違いです。

あくまでも教会としての特別措置であって再開ではなかった。また、総会の決議違反でもなかった。既に外部に向けてお知らせ済みの為、牧師は教会から礼拝を守り、他の方々はご自宅や然るべき場所でオンライン礼拝を守られたわけです。勿論、教会員には連絡網が回っています。現にその後の礼拝はオンライン礼拝となっています。その理由は感染者の増加の恐ろしさを目の当たりにし、更に公共交通機関利用を利用される恐ろしさも全ての方が理解しているからです。よってオンライン礼拝は今後も続いていく事でしょうし、そのことは教会員も承知頂いていると思います。

次のステップについても、話題に上がっております。オンライン礼拝の継続、それに伴う環境整備。又、会堂を開いたとしても当面は公共交通機関を使わない方のみいらして頂く。体温を測ってからいらして頂く。手洗い、消毒の徹底等。また、健康に不安のある方、持病をお持ちの方はご辞退して頂く。(つまり命あっての全てと言う点において、きちんと各自が納得して頂きたいわけです。)

当面、金井牧師はご自宅から礼拝を発信して頂く。

また、会堂を再開する一定の基準を取り決めていかないといけないと思うのです。つまり、自然災害時や予想されている大震災などにおいても適用されていくと思うのです。

なってみないと分からない事は、重々承知の上ですが一定の基準を設けていかないといけないですね。その一定基準が規約にも載るくらいのものを準備する必要があると感じます。

では、感染者数が今後激減したとします。だからと言って、教会での礼拝が全てではなく、オンラインでご自宅で礼拝を守る事が出来る意識を皆様にも周知していく努力が必要との意見も出ました。幸い献金については、新しい考え方が機能され始めております。中には今の状況では砧まで行かれない判断をされている方もあります。

萩原さんにこのようなメールをお送りしても何もわかっていないと憤りを感じられるかと思います。それは重々承知しております。

しかしながら、私たちは教会と言う場所において聖書を通して学び、互いに励まし合い、慰め合い、高め合って繋がっている小さき者たちです。規則だけが全てとは思えないのです。赦しがあっても良いのではないでしょうか。信仰の大先輩である萩原さんが一番お分かりだと思います。

萩原さんが仰る通り、ルールはルールだと思いますがケースバイケースがあっても良いのではないでしょうか。学校や企業のルールと同一視することは私は反対です。

金井美彦氏は、約1年ごまかし続けた上に、ごまかしきれずに会堂は再開したと認めたのだから、役員会はこのメッセージを再考しなければいけない。最初に事実に向き合ってさえいれば、こじれたりしなかったのだ。その結果、私は母教会の籍を失った。事実を認めたら、金井美彦氏は去るかも知れないと私に言ったことを、あの役員は覚えているだろうか?独裁者は民が作るのだ。

事実に向かい合う姿勢を失ったことで、逆に会堂の再開についても自信をもった判断はできなくなってしまっている。正しく情報を開示することなく、判断一任を取り付ける書面総会を行ったから、会員に問うこともできない。隠し事をなくさなければ正常化する日は来ない。

私は、事実に基づくと思われる理由で砧教会の執行部の糾弾を今後もさらに強く主張していく考えだ。それを止めることができるのは、リーダーである金井美彦氏しかいない。彼が、自分の完全性にこだわっている限り、私の糾弾が止まることはない。ルール違反は、ルール違反だ。私は、牧師として許されるべき状態だとは思わない。

金井美彦氏も役員諸氏も何とか前に進めようと努力しているのはよく伝わってくる。その思いは本物だと思っているし、応援したい気持ちももちろんある。しかし、それは私を排除して進む未来だから、彼らは事実に向かい合って解決しない限りそれを永遠に背負い続けなければいけない。私は事実の追求を止めることはない。

金井美彦氏は、今日反省は大事だと説教で述べていた。まず、自ら反省することをお奨めしたい。