アイデンティティについて

様々な人が語り尽くしたテーマだが、今の考えを書いておこうと思う。

私がアイデンティティとして最初に頭に浮かぶのは「日本人」だ。キリスト教徒というのも自分が強く意識するアイデンティティの一つだ。自由学園の時に学んだ、3つのJという話が印象に残っている。Jesus、Japan、JiyuGakuenで、その順序が大事だと習った。当時は、教会との接点はあったが信徒ではなかったけれど、そうか自由学園ではまずキリスト教に従い、日本に従い、自由学園(のルール)に従うのが正しい姿なのかと思ったのを思い出す。自由学園の卒業生というのもアイデンティティだ。自分の所属企業や育った土地へのアイデンティティを強く意識する人もいるだろう。

昨日、オンライン礼拝で「エレミアの訴え」の講解説教を聞いていて、今風に捉えれば、エレミアは極右だったのだと思った。王権神授説と通底する。正しい道は一つで異端は排除されなければならないという考え方で、その正義が通らないと神と権力に頼る。同朋をさばいて価値観を強制したりする。正統性に強い権威を求めると、権力者は凶暴化し内部は分裂し、外部とも緊張が高まり、少し長い目で見れば例外なく破綻する。現実的には、強い権威を求めないように調整していく以外の道はないのだが、そうすると我こそが正統派と考える人達が暴れてしまう。実際には、そういう正統派を自認する人たちの意見が一致しているわけではなく、正統派から遠い人たちを打ち負かすために結束しているだけだ。だから、ある程度の勝利が得られれば内部闘争が激烈化する。哀れなことだが、ずっとずっと繰り返されてきたことだ。

多くの戦いの経験を経て、「日本人」である前に人間であるという考えがある程度支持を得るようになったが、現実には自分には他の人とは違って特別な権利があると考える人はいなくなることはない。足が速いから特別、勉強ができるから特別といった計測可能な軸を設定すれば順位がつく。身体能力で計測すると、異民族の使用人に勝てなかったりするので、何々人というアイデンティティを棚上げして、異分子を内部に引き入れて何々家が勝ったと溜飲を下げる。ちょっと引いてみれば、本当は正統性などどうでも良く、勝つか負けるかの問題である。勝者は支配権があると考えるが、そこに正統性があるとは限らない。

負けたくない、勝ちたいという思いは、誰にでもある。一方で、やって良いことと、やってはいけないことがあることも誰もが考えることだ。勝ちたい思いが強ければ、やってはいけないことの範囲は狭まる。敵のリーダーを暗殺しても勝ちは勝ちという考えもでる。大義のためなら、問題のある集団を仲間に引き入れるといったことは頻繁に起きる。

アイデンティティは、日本人として負けたくない、日本人としてはやってはいけないことに手を出さないといった形で機能する。ひとりひとりの問題とは別に、集団として他の集団に負けなくないという意識が働けば、頑張る気持ちにつながって力を出すことができる。それは結果が出るゲームだ。

わかりやすいのは、スポーツだ。私がオリンピックが嫌いな理由の一つだが、オリンピックは国の競争になっているので、アイデンティティを刺激する。勝たねばならないと考えると、ドーピングをしても勝ちに行ったり、外国人をチームに入れたり国籍を移行させたりして競争力を高めようとしたりする。かつて、日本は、日本人だけでやらなければいけないと考える人が多かった。今でもいる。実際には有力なスポーツ選手の中には、正統性の薄い人はいる。肌の色が違う人もいれば、片親が外国人とか、祖父母の1人が外国人と言ったケースはいくらでもある。もともと日本以外のアジア人で日本人として活躍している人もいる。日本が勝てるなら問題ないと考える人もいるし、それは日本としてやってはいけないことだと考える人もいる。一人として完全に価値観が一致することなど無い。国の戦いにすれば、競争力と競争力のための原資を引き出すことができるが、スポーツはプレーヤーの勝ちたい思いのぶつかり合いで本当は国など関係ない。大きくしすぎればサーカス化し健康に資するもので無くなっていく。

ナショナリズムは、何々人として守るべきことを一色に染めようとする活動だ。実際には価値観の一致などありえないのだが、正しい価値観があるという前提に立つ。価値観を強制するのには猛烈なエネルギーが必要である。現代であれば、カネがかかる。プロパガンダ、フェークニュースで多数派の構築を試みる。実態としては、何々人としてはやってはいけないことに手を出さないという倫理規範は守りきれず、内部で権力を勝ち取ることが優先されてしまう。誰が見たって、安倍氏が統一教会の代表者を褒めるようなスピーチが、彼の言う美しい日本と整合しているとは考えない。つまり、勝つためならその程度の倫理的な逸脱は問題ないということだ。桜を見る会も同様だろう。キーワードは「この程度は権力者の裁量の範囲」という考え方だ。内部の分断が進み、権力闘争が起きると「この程度は権力者の裁量の範囲」が広がっていく。もう少し、踏み込んで言えば、権力志向の強いリーダーは勝つために裁量の範囲をどんどん広げていき、自分に従わないものを排除していく。どちらにつくかを迫り、自分に従うものが正統派だとする。アメリカでは、トランプは客観的な事実としての選挙結果を覆そうとして、それが正しいことだと今も考えている人もいるようだし、アメリカファーストという価値観を通すためなら、不正や不法も許容するという人もいるのだろう。正しさを勝ち負けで決めようとしてしまえば、やがて内部から集団を破壊してしまう。勝ちたい、あるいは負けなくないという気持ちを刺激することで動き始めるが、その向こうに楽園など無い。

一方、アイデンティティは倫理軸でも負けたくない、勝ちたいという気持ちを刺激する。他の軸で勝てなかったとしても、この軸では勝ちたい、あるいは尊敬されたいという感情も生む。例えば、ロシアから再独立したエストニア。国力ではロシアにはとても対抗できないことは自覚しているが、独立心は強い。e-residencyプログラムを作って、仮に領土が取られたとしても国家が存続できるような仕組みを作り、世界でその存在が認め続けられるような制度を作り、デジタル・ガバメントの軸で広く受け入れられるべく心をあわせて活動している。私は、その動きに対して強い敬意を感じている。

日本も敗戦時にちょっと似た部分があったのだと思う。決定的な負けの中から、新しい日本を目指した。決してアイデンティティが失われたわけではない。ナショナリズムの末路に気がついて、新しい未来を作ろうとした人がその時の多数を占め、日本人の倫理観が書き換わったのだと思う。もちろん単純なことではない、アメリカ兵によって近しい人を失った恨みが無いわけはなく、いつかひっくり返してやると思った人も多くいただろう。それでも、運もあって日本は経済的に成長し、書き換わった平和主義の倫理観を善しとする人が大勢を占めた。一方で、経済的にうまくいくことだけでは愛国心は満たされない。私が20歳代の頃はまだ日本は上り調子だと信じていたので、やがて日本はアメリカを買えるのではないかと考えていた。今考えれば、慢心そのものなのだが、日本人は特別な民族なのだと思っていた。誇らしかった。一方で、誇らしいと思うからこそ頑張る元気も出た。良い面も悪い面もある。

キリスト教徒というアイデンティティも行動に影響を及ぼす。ちゃんとしていたいという気持ちとは別に、ちゃんとしていなければいけないという気持ちも生まれる。前者は自然な思いだが、後者は作られた思いだ。恐らく、後者の思いは「エレミアの訴え」と類似のもので、原理主義につながるものだ。アメリカのプロライフもその道で、排他性を生んでいく。しかし、だから宗教はやばいと単純に結びつけてしまうのも足りないと思う。

日本にはオウム真理教の歴史もある。私は、関係者を死刑にしてしまったのは本当に残念なことだと思っている。犯した罪の大きさは間違いないものだと思うし、亡くなった方も人生が変わってしまった被害者も多数存在することは紛れもない事実だ。しかし、信者の人が、特別な人、自分と全く異なる世界にいる人とは思うことができない。若かった頃は、自分はこちら側、かれらはあちら側といった単純化ができたが、いろいろなことを学び、経験して、世の中には悪人と善人がいるなどと思うことはできなくなった。つきつめて考えてみると、ほとんど本質的な差異を見出すことができないのだ。恐らく、信者の人たちは、本心から善行だと思っていただろう。ただ、その前提に「この程度は権力者の裁量の範囲」と類似の「この程度は正しいものがやって良い裁量の範囲」という意識があっただろう。犯罪行為を超える善を信じた瞬間はあったはずだ。殺人はいけないことという価値観がなかったとはとても思えない。優先すべき価値観の順序が多数と一致しなくなったのだ。異常性に気がついたとしても引き返すことができなかったケースもあるかも知れない。もういいやと思って考えるのをやめた人もいるかも知れない。世界中に類似事例はある。

私は国家神道は、本質的に宗教でないと思っている。国家権力を固めるために知を尽くして考え出された統治システムだと思う。価値観を一本化し、異端を許さないように見えるが、実は国家元首を現人神としてその命に従えという教義以外はきわめて緩い。本当に弾圧してしまえば、反乱が起きることは計算に入っていて、キリスト教会も取り込んでいる。国家神道は価値基準を統制できればそれで良いのだ。日本人というアイデンティティを肥大化させ選民意識を持たせればそれで目的は達成できるということになる。しかし、現実は異なる。人の価値基準は統制できない。だから、国家神道の理念を追求する人の中からより正しい道を見つけてしまう人が出てきてクーデターを起こす。俺の方が正統派だという闘争はほぼ全ての宗教で発生している。イスラム過激派も福音派も自己の正統性を基本とする。教義を狭く厳しくするほど差別化が進むから、強固なアイデンティティの源泉となる。破滅的な献身強要は強い依存心を醸成する。

自分のもつアイデンティティを冷静に見つめることで、先入観の影響の大きさを知ることができる可能性がある。自分が意識するアイデンティティが自分の行動にどう影響を与えているのか、それが異なるアイデンティティを有する人を含めて見た時に福祉に貢献するものなのかを事実を元に評価するのが好ましいだろう。

私自身を振り返ると、日本人は特別な民族なのだと思っていた時期にそのおかしさに気がつくことは難しかったと思う。しかし、日本の外からは日本を注意深く見ていた人はいた。冷静になぜ日本が成功できているのかを分析していた人はいるし、その良い面を取り入れて成功に結びつけた人はたくさんいる。盗まれたものもあるとは思うが、それで現在の凋落を説明するのは無理がある。日本人というアイデンティティをもって見る目は歪むのだ。

アイデンティティの良い面は、ちゃんとしていなければいけないという気持ちがより良い行動を生むところにある。ただ、それはアイデンティティの母体となるコミュニティにとって都合の良い行動であることを忘れてはいけない。もし、そのコミュニティが有害なほど排他性をもっているならその未来が明るくなる理由がない。言い換えれば、そのアイデンティティとダイバーシティアンドインクルージョンが両立していればよりよい未来に向かっていると考えて良いだろう。多様な人がいるところで自分のアイデンティティを表明した時に抵抗感がない状態であるのが望ましい姿だと思う。

自分の居場所を安易に求めてはないけない。厳しくても、幻想ではなく事実に向かい合わないといけない。不安が高まっている時期は危ない。私は、自分の身の回りの手の届く範囲で事実をごまかす行動と戦い続ける。

コメント

あの銃撃事件はあってはならないことだったと思っている。

しばらく時間が経過して分かってきたこともある。彼が恨みを買う理由はあった。もちろん、理由の有無に関わりなくあって良い事件ではない。

私は、半ばあきらめ感を抱きながら、安倍が影響力を行使する世界で生き続けなければいけないことに苦しんでいた。滅亡への道に巻き込まれている感があったのが本心だ。しかし、まさかこのような形で彼がこの世を去るとは思っていなかった。

仕事をしなければ生きていけないから、一生懸命仕事をするが、ショックの影響は否めない。やり過ごすという道もあるのだろうが、もう一度これまでどう考えてきたのか、今どう考えているのかを整理する道を取った。時間が経過して振り返った時に自分がどういう風に読み返すことになるのかは今はわからない。書き留めて置かなければ、自分の記憶も書き換わるし、反応があればそれで考えが進む。自分の不足にも気がつくことができる。

多分、2020年6月7日事件がなければ、今回の私の反応も違うものになっていただろう。事後、金井美彦氏と佐分利正彦氏、砧教会の当時の多数の役員から追い詰められて、真実を追い求めたいという気持ちに火がついたからだ。自分のアイデンティティに関わる問題だと、簡単にスルーすることはできないのである。真実を明らかにする金井美彦氏との戦いは終わらない。しかし、彼の説教は多くの回で示唆に富む素晴らしいものだ。完全にはずれていると思うこともあるし、腹が立つこともあるが、私は彼が誠意を持って牧師の任に当たろうとしていることを疑わない。それでも、事実をごまかし続け、被害を出し続けている現実も彼の業だと思っている。善人とか悪人という問題ではなく、私は教会が真実から目をそらす場所であってはいけないと考えている。安倍問題も金井問題も私の中では同じだ。一定の支持を得て地位を得ている人は、ごまかしなく未来を作って欲しいと思っている。特に権力者は偏った裁きをしてはいけないと思うのである。

もう安倍はいないが、疑惑が解決したわけでもないし、安倍後の政治がごまかしのない方向に動くかどうかもわからない。私一人が発言することは1億分の1の声でしか無いが、より良い未来を願って発言を続けようと思う。不適切なこともあるだろうし、読んで不愉快に思う人もいるかも知れないが、声を上げなければ影響を与えることはできない。虚偽発言はしない。能力不足で過ちは出るかも知れないが、決して故意に虚偽発言はしない。