民事訴訟に学ぶ6

hagi に投稿

前回に引き続き本日2022年9月13日、裁判所3回目。今回は約40分。弁護士の助言もあり、準備書面でのやり取りで新たな重要事実が明らかになることはなさそうということで、そろそろ終結に向かう方向にある。次回には、和解による取り下げか、継続かの方向が決まるのではないかと思う。

裁判官から確認されたと認識しているのは、私が最も重要視するのは「今後砧教会の決定が正統なプロセスに沿ったものになること」として良いかという点である。いずれにしても、家族はもう砧教会を去ってしまい、過去の平和な時代が戻ってくる可能性は極めて低い。自分は、再び砧教会での信仰生活を継続する意向なので、望ましいことを削ぎ落としていけば、裁判官の指摘は適切だと思う。その正統なプロセスによって、正式に排除される可能性があるとしても、私が求めているのは自分が人生の大半を過ごした砧教会が好ましい状態になることだから、削って削って削りきればそれで合意するのが適当に思う。そもそも、金井美彦氏を追い出したいと思っているわけでもなく、砧教会が正常化されて共に信仰生活を過ごしたいと思っていることに嘘はない。ただ、真実をごまかしたまま共に歩むのは難しい。それでも、今後ごまかされることがないなら、過去のことは水に流す方が良いのかも知れない。それとも、これは甘い誘惑なのだろうか。いずれにしても、どこかで決断しなければいけないだろう。

では、正常化された状態とはどういう状態だろうか。簡潔にまとめれば以下のようになると思う。

  1. 教団教憲第7条の「本教団の所属教会は、本教団の信仰告白を奉じる者の団体であって、教会総会をもってその最高の政治機関とする。」が機能していること。つまり、教会総会で決めたことを変えるには教会総会で決めなければいけないという原則が事後であれ守られること
  2. 教会の運営が牧師であれ、役員であれ、事実の隠蔽や恣意的な解釈で行われることがないこと。疑義が出て、納得が得られなければ最終的にプライバシーに配慮しつつも事実を包み隠さず明らかにして教会総会で決めること

2020年6月7日の事件は、上記2点で正常な状態が損なわれていると萩原が考えたことで発生した。私は、過去の事実を有耶無耶にしたまま正常化はできないと考えているが、被告らはその事実を明らかにすることを避けたいと考えているように見える。もちろん、被告以外の役員も役責に基づく行動そのものには異議を申し立てなかったことを含めプライバシーはなく、役員を引き受けた以上責任を逃れることはできない。既に実害は出ていて、長引けばさらに被害は広がるだろう。私は性格的にこうと決めたら手を抜けないからだ。大局的に見てそれが良い結果を生むかと問われれば単純に善しとすることはできない。

万が一牧師や役員が上席を好むものになっていたら教会は傾くと私は思う。事実に謙虚に向かい合うことで未来は明るくなると私は信じている。身近なところにも権威主義の誘惑は消えない。しかし、事実に謙虚に向かい合うことができれば、共に歩む道を見つけることができると私は信じている。今感じている救いにつながる「狭い門」である。

コメント

裁判官からは書くなとは言えないと言われているが、被告側が気にしているようだから、和解を困難にするなどのリスクがあると言われている。しかし、私は自分が事実と思うことしか書いていないし、黙っていれば、まだ事実が明らかになっていないとはいえ独裁者かも知れないものの主張を認めることになりかねないから、こうして記事を書き続けている。誰が見ているのかまでは追求していないが、読んでくださっている人が三桁とは言わないものの複数いるのはわかっている。どれだけ、当事者が読んでいるかは、現時点では特定していなので知らない。現時点では本当に知らないし、現時点では追求する意思もない。しかし、インターネット時代にはネットをあまり使っていない人でも嘘はかなりの確率でバレる。息を潜めていてもターゲットにされればまず逃げられない。

正直に生きるのがおそらく幸せへの近道だ。当事者には、バレて追い詰められる前に正直に告白することをお奨めする。教会員に嘘をついていたり、責任がある立場なのに真実に対して黙している人は、暴かれる前に自分で告白したほうが良いと私は思う。真実に向かい合っていないと感じる人には私は追求の手を緩めることはない。脅しに取られるかも知れないが、そうではない。私はただ真実を求めたいのだ。ごまかそうとする人に対して私は手を抜く気持ちはない。