宗教の排他性について

hagi に投稿

檀家のことは私は良く分からないが、キリスト教(日本のプロテスタント教会)の場合は洗礼、あるいは幼児洗礼後の信仰告白をもって信徒となる。自分の信仰告白無しにキリスト教徒とは認定しない。本人の意志表明を不可欠としていることには合理性があると思うが、私は洗礼を受けたものには受けていない者とは違う知識と恵みが与えられるという考え方には違和感を覚える。だから、牧師等が「私達クリスチャンは」と言って話し始める時は眉に唾をつけて聞く。その表現自身が既に差別の始まりだと思うからだ。もちろん、内容までおかしいと感じることは稀なのだが、話者が自分が選民だと考えているとしか思えない時は、それはアウトだと思う。それは簡単に言えば、俺の言うことが信じられないやつは地獄行きと言明しているのと変わらないからだ。もはや脅しである。

信仰告白した人でも犯罪に手を染める人は現れるし、自分自身が信仰告白をしているからといって自分のことを聖人君子だなどと思うことはとてもできない。当たり前のことだ。

統一教会問題で、脱会すれば地獄に落ちると言われているようだが、事実だとすると統一教会に属していれば何か特別な権利が手に入るということを意味していることになる。もし、そういう言明があるとすれば、それは詐欺だ。個々人がそれを信じるのは自由だと思うが、それを他人に普遍的な真実のように言明すればそれはアウト(罪)としなければいけない私は思う。

恐らく人は不安になると、何か確かなものにすがりたくなる性質がある。特に不安がなくても真理を知りたいと考える性質もあると思う。

私の場合は、母が入信して砧教会の教会学校に小学校中学年で通い始めたのがキリスト教との出会いだった。特に強制されたことはなく、居心地は良かった。大人の人達は知的できちんとしていたし、聖書の教えには特に違和感を感じなかった。キリスト教を信じれば幸せになれるとは思っていなかったが、教会にいるは若い人でも大人の人もそれぞれが自分の考え方進もうとしている方向を持っているように見えて、小学校の先生から感じた硬直的な大人の言うことを聞けというような権威主義的なイメージよりは好ましく感じられた。当時は、考えたことはなかったし、気づくこともなかったが、ある意味多様で開かれた空間だったのだ。多様と言っても知識人とその子女が中心だったが、障碍者も多く集団に溶け込んでいたし、寛容な印象があった。中学、高校の頃の同世代の人達は、国立大学に進学するような人達で、それぞれの学校での学びの違いや関心の違いがあって、自分がいた自由学園でのつきあいから得るものとはまた違ったところがあって、教会、教会学校でのつきあいをとても大事に感じていた。

しかし、何かきっかけがあったら、統一教会に引き込まれていたかも知れないと思う。世の理を知りたいという気持ちは強かったから、科学、数学のような再現可能性が期待できる分野に惹かれていた。もし、原理研に真実があると思ってしまったら、のめり込んでいたかも知れないと思う。恐らく、入信時の信徒に邪心はなく、ここにきっと真理があると思ったのだろう。だから、私は統一教会の信徒を迫害すべきではないと思っている。

ただ、宗教組織には透明性が欠かせないと思っている。秘技とか秘跡とか説明できないことがあっても良いが、信者しかアクセスできない、とか、エリート信者しかアクセスできない何かがあったとしたら、それは恐らく詐欺の源泉となる。情報の対等性がないところには搾取が忍び寄る。ピュアな思いに巣食うものが出現してしまうことがある。

自分の持っている情報から判断する限り、統一教会は邪教だと思う。教義の中にアダム国家とイブ国家といった差別的なことが含まれているからだ。最初から表に出ていたら、常識的に考えて布教活動は成功しないだろう。最初は、もっと個人に響くことに集中させて、レベルが上がる段階で徐々に開示していくシステムになっていると、違和感を感じにくくなってしまう。そして、外部との接触を遮断すると、その時に得ている知識をゼロから見直す機会がなくなってしまう。閉鎖空間にいると、見えなくなってしまうのだ。

私はキリスト教自身は邪教だと思わないが、常識で考えればイエスが十字架刑で死んで復活したことを信じるというのは異常なことだ。自分は19歳の時に洗礼を受けたが、それ以前はキリスト教の教えには親近感をもっていたものの、友人が洗礼を受けるのを見た時はショックを受けたし、自分も受けなければいけないとはちっとも思わなかった。ただ、彼に何かが起きたと感じたのは覚えている。彼は、私に洗礼を受けなさいとは言わなかったと思う。複数の教会員から、そろそろ洗礼のことを考えたらどうだという奨めはあったが説得された覚えはない。牧師からも奨められた覚えはない。気がついていないだけかも知れないが...。

いずれにしても、キリスト教は布教の先頭に十字架と復活が出てくる。最初から一番やばくて受け入れ難いところがオープンなところがすごいと思っている。同時にその行動規範はやばくない。そこがやばければ2,000年も宗教大手として続くのは難しいだろう。しかし、宗教組織としてのカトリック教会やいくつもの教会組織は時の権力と結びつきながら成長してきたので、しばしば邪教化した。略奪行為もあったし弾圧もあった。事実を握りつぶしたことも多い。私は幸いだと思うが、時々改革勢力が現れてオープン化が進んできたことで、邪教化が抑制されてきた。事実の追求に基づいて情報開示が進むと多数を抱える宗派もごまかしが困難になる。閉鎖性を保つのが難しくなるからだ。聖書学でテキスト分析や歴史分析が進めば、テキストの執筆意図も見えてくる。もちろん、いろいろな解釈は与えられるから、これこそ真理だと言い出す人はいるだろう。それでも、情報が開示されていればゼロからの検証の余地が生まれる。オープンであるということは、自分で判断しなければいけないということでもある。教師も一人でない方が、多様な方がよい。宗教そのものが邪教でなくても、教師が隔ての中垣を作るようになれば邪教化するリスクが高まる。論争がある時に事実に戻れなくなったら、黄信号が灯っているということだ。

イエスの復活を含め、常識外のことを自分の事実として信じるのは自由だと私は思う。教祖を神と思うのもそれ自身は、個人の自由だと思う。しかし、社会的な観点から考えれば、それはあなた、あるいは私がそう信じているというだけのことであって、検証可能な範囲を超えて普遍的な事実と認めることはできない。そして、そういう宗教的事実を信じるか信じないかで壁を設けてお互いを違う世界においてはいけないと思うのだ。信仰に関わらず、人間であることに変わりはない。

国も同じだ。壁を設けて人の交流、情報の流通を妨げれば、壁の向こう側の人が人に見えなくなってしまう。また、モリカケ桜あるいは安倍国葬のように隠蔽に走って事実に向かい合えなくなったら、既に分断と差別が国を蝕みつつあると考えなくてはいけない。入管のような行政機構が人を殺してしまうようなことは、排他性問題にメスを入れ、透明性があっても困らない状態を作らないと防げない。

排他性は強く規制されて良いと思う。弔意を強制する国葬など、排他性の高さの象徴のようなものである。