新生活131週目 - 「ラザロの死〜イエスは復活と命〜イエス、涙を流す〜イエス、ラザロを生き返らせる」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「四旬節第5主日 (2023/3/26 ヨハネ11章1-45節)」。今週も並行箇所はない。

福音朗読 ヨハネ11・1-45

 1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」9イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。  
 17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」  
 28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。  
 38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。  
 45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

印象的なのは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」という言葉だ。先週出てきた「神の業がこの人に現れるためである。」という言葉と近い。福音のヒントの出だしにあるように「洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれて」いるのだろう。そろそろ覚悟を決める時期が来ているのではないかと考えている人は煽られるだろう。ちょっと危ない気がするが、煽られようが煽られまいが動く時には動くし、受洗しても後に転向する人はいるから霊が動くということが何を意味するのかは容易にはわからない。

ラザロの復活(蘇生)はちょっとゾンビ感がある。「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。」とあり、このあとどうなったのだろうかと想像させる。健康を回復したのか、幸福な余生を送ることができたのかわからないが、私にはあまり前向きな想像はし難い。伝承では、ラザロ(wikipediaは英語版の方が詳しく、ラザロの墓所の話も書かれている)と姉妹はキプロスで伝道活動をしたとか、マルセイユで伝道活動したとか書かれているらしいので、健康を回復して長生きしたのかも知れない。

一方で、このヨハネの箇所は編集の結果とする意見もある(英語版WikipediaのLazarus of Bethanyから引用)。

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史実はわからないが、ヨハネ伝の編者の意図としては、イエスは既に死体が痛むほどの時間が経過した死人を組成させる力があった、その権限を神から受けていたと示したかったのだろうと推定する。それが文書化されると、その当事者であるマリア、マルタ、ラザロのその後が問題となり、伝道者になったという話として残ったのかも知れない。キプロスは海路を含め400km弱、マルセイユは3,000kmエルサレムから離れている。ローマを中心に見れば、マルセイユのほうがかなり近い。

福音のヒント(6)では「この物語の中で特に印象的なのは「イエスは涙を流された」(35節)という言葉です」とある。確かに「「神的な力を持ったイエス」と「人間的な弱さや感情を持ったイエス」、この2つの面は切り離せません」はヨハネ伝が伝えるイエスの特徴でもあると思う。ただ、感情を元に判断して力を行使すれば、公平は失われる。

共観福音書ではヤイロの娘の蘇生の話がある。マルコ伝、ルカ伝はイエスは他言無用としている。必要なら奇跡は起こすが、奇跡で人の心を惑わしてはいけないとイエスが考えていたようにも読める。ヤイロの娘は救われなければいけない理由も人間関係も無かったように読める。共感・共苦は人を救うが、依存を引き出す危うさもある。

ラザロの墓は特定されているようだ。リンクしたWikipediaの記事では4世紀頃の言及なので、多分後付の話だろうと思う。もちろん、そのままの事実が無かったとしても、イエスが死者を蘇生させる奇跡を行った事実はあっただろうと私は思っている。正に奇跡だし、スーパーパワーだと思うが、イエスは徴に重きを置いていたようには思えないので、日常の一コマに過ぎなかったのではないかと思っている。

現代でも奇跡的なことは起きるが、奇跡に頼っても大きな問題を解決することはできない。受難節に改めてイエスとは何者だったのだろうかと考えることは自らのことを考えることにつながり、社会と自分の関わりのことを考えることにつながる。その中で、自分で道を探し、決断をしていかなければいけないのだと思っている。

※冒頭の写真はWikimediaから引用した現在のラザロの墓