新生活176週目 - 「多くの病人をいやす〜巡回して宣教する」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第5主日 (2024/02/04 マルコ1章29-39節)」。マタイ伝8章、ルカ伝4章に並行箇所がある。NIVではJesus Heals Manyという表題がつけられていて新共同訳と同様、BSBではJesus Heals at Peter's Houseとなっている。ペテロの家での癒やしとでも訳せばよいかと思う。3年前の記事がある。

福音朗読 マルコ1・29-39

 29〔そのとき、イエスは〕会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。30シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。31イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。33町中の人が、戸口に集まった。34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
 35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。36シモンとその仲間はイエスの後を追い、37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 3年前の記事を読んで見たら、ほぼ今の気持ちと同じであることに気がついた。先週の説教は、いくつもの箇所を引用して、興味深い部分はあったものの、全くメッセージ性は感じられなかった。残念なことだ。

改めて聖書箇所を読むと、「巡回して宣教する」という見出しがついている35節以降が気になってきた。イエスはペテロの家で奇跡的な治癒を行ったわけだが、それは自分自身の力だとは思っていなかったのだと思う。預言者同様、本質は神の行いであり、それを預かっているという自覚があったように見える。だから、人間イエスは祈る。自分が神そのものだと考えていれば、祈る理由はない。自分がなすべきことを神に聞くのも祈りとなる。そして、このタイミングで宣教を決断したのだろう。求道から宣教への転換と見る。求道中にも奇跡は起きる。宣教の段階でも期待していた奇跡が起こらないことはある。ただ自分が道を求めて良い行動を行うことと、救済を前提とした行動は違う。宣教は自分のためにすることではなく、真の宣教では自分の存在は消えていく。

弟子の場合は、ペンテコステがこのタイミングにあたるだろう。求道者が宣教者に変わった。

一人の信徒のこととして考えると、受洗のタイミングはまだ求道者だ。位置づけ的には按手礼で宣教者に変わるのかも知れないが、別に儀式によらなくても、人間は変わる。本当の意味で宣教者にフェーズチェンジしたら、その人の個人の人生は終わりで、他人が認めるか否かによらず公生涯を生きることになる。そういうタイミングが来る人は確かに存在するとしか思えないが、よく考えるとかなり恐ろしいことである。先達に学ぶということと、宣教者になるということは本質的に違う。しかし、イエスは福音を述べ伝えよと命じた。それは宣教者になれという命令でもある。忘我の境という事かも知れない。

自分を見れば、忘我の境には程遠いし、そうなったら危険だとしか思えない。それは、何か良いことをしようとする時に、自分のためにしているからだろう。自分に頼らずに行動できるようになったら何が起きるかは想像できない。もし、あなたや私にその時が来てしまったら、覚悟を決めるしか無い。しかし、もしその時が満ちずに求道者のままであってもやれることはある。日々、良く景色を見ながら、できることをやれば良い。できれば、日和らずに正しいと思われることをやるのが良い。

※画像はWikimediaから引用したIvan Kramskoi: Christ in the Wilderness。この箇所の絵画ではなく、砂漠の誘惑に関連したものだと思う。聖書に記載されたイエスは良く祈る。十字架の上でも祈ったように書かれている。何が自分に与えられた道なのか、何を優先するのかといった問に向かい合っただろう。今日の箇所では、必ず道は開けると信じることにしたのではないかと想像する。一つ乗り越えても、また壁にあたる。それでも、必ず道は開けると信じられるうちは、歩み続けることができる。イエス伝は、大丈夫、誰であっても必ず道は開けるというメッセージを発している。一人静かに祈る時間は必要だ。