新生活182週目 - 「ギリシア人、イエスに会いに来る~人の子は上げられる」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「四旬節第5主日 (2024/3/17 ヨハネ12章20-33節)」。3年前の記事がある。新共同訳には2つの見出しがついているが、NIVやBSBでは20節から36節は一括りでJesus Predicts His Deathという表題がついている。二つの話と見て読むか、一つの話として読むかで印象は変る。英語版Wikipediaでは対照を含めてJesus predicts his deathの記事がある。

福音朗読 ヨハネ12・20-33

 20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
 27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

福音のヒント(1)で出てくる祭りということばは、ἑορτήだろう。Englishman's Concordanceでは、その言葉は、マタイ伝、マルコ伝でそれぞれ2回、ルカ伝で4回、ヨハネ伝では17回出てくる。過越の祭りはかなり排他的なものだから、わざわざその時期を選んでギリシャ人が訪問したとは思いにくい。たまたまだったとすれば、そのギリシャ人は事前調査が足りない。承知で来たとするとイエスを利用できると考えたのかも知れない。いずれにしても、恐らく事実としてはこの記事のとおりのことは無かったと思う。

福音のヒント(3)に出てくる一粒の麦の話も平行箇所はない。小説塩狩峠で有名になった箇所でもあるが、これも恐らく記者の創作だろう。福音のヒントの解釈に変な感じはないし、ヨハネ伝の記者がこの話を挿入した意図はそのようなものだったと思う。入信しようか迷っている人にとっては強力なメッセージとなる。続く25節にはマタイ伝10章、16章、マルコ伝8章、ルカ伝は9章、14章、17章に並行箇所があるので、麦に例えた史実がなかったとしてもイエスのメッセージが示す事象とは近かったのだろうと思う。個人的にはそれを(改変だとしても)言葉にするのがだめだとは思わない。

31節の「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」も平行箇所がない。実際にはこの世の支配者が追放された事実はないし、この世が裁かれたタイミングではなかったと思う。ここも創作だと思いたいが、人間イエスもそう考えていたかも知れないと思わないでもない。生前のイエスが完全に全てが見えていたとは思えない。

28節の「天から声が聞こえた」という表現は、空の向こうに天があるという思いに根ざすものだと思うが、現代人は、空の上には暗黒の無の空間が広がっていることを知っているし、地球が惑星の一つで極めて小さな存在であることも知っている。天から声が聞こえたとしても何かの物理的な事象か、あるいは心理的な事象が起きたとしか解釈のしようがない。一方で、何かあったんじゃないかなあという思いはある。あって欲しいという願いのようなものかも知れない。

あって欲しいという願いは、ナショナリズムに繋がりやすく危うさを秘めている。創世記の編纂時期はBC6世紀頃のバビロン捕囚期と言われていて、ノアの洪水をBC16世紀とすると千年前の歴史記述となる。現代であっても千年前の歴史的事実を検証するのは難しい。日本で言えば、天皇に関する記述はBC6世紀ころまで遡って書かれているが、どこまでが史実かは分からない。モーセ五書も、当時の編纂者が作った歴史が相当含まれているのは間違いないだろう。なんだかんだといっても歴史は権力の正当化を導く方向に改ざんされる。「天から声が聞こえた」はもし事実がなかったとするとイエスの真正性を偽造するための歴史改竄が行われたということになる。あってはならないことだ。ただ、歴史を編纂するものが改ざんをしたとしてもその客体がまがい物であったということは言えない。また、モーセ五書に恣意的な記述が含まれていたとしても、その律法体系が良い方向に機能した面もあるだろう。十戒は神から受けたものとして基本法に位置づけられている。協議で決めることは容易ではないから神の権威を借りたと考えるのが自然だ。過越の祭りは出エジプトを記念するものだが、恐らく厄除けの呪いの後付の定義だろうと思われる。国が滅びた時にアイデンティティを意識させるために選民思想を織り込む編纂が行われたと考えたほうが説明しやすい。様々な故事伝承を意図をもってつなぎ合わせて正史を作る試みの事例はユダヤ教に限らずたくさんあるが長く残るものは多くない。ある程度世代を乗り越えると正史は史実と考えられるようになるが、正史は作り上げられたものだということを忘れてはいけない。同時に世代を越えた制度には相応の合理性がある。全てが正しいということはありえないが、機能してきた制度には敬意を払うべきだろう。

イエスも天からの権威を主張するシーンは多くある。愛を起点とする新たなルール(価値基準)は律法主義を劣後させ、ある意味で制度破壊をおこなったわけだが、律法を否定したわけではない。律法に基づいた判断を原則とするが、それだけで判断しても良い未来は来ないと主張したと取るのが自然だろう。恐らくイエスは正史を信じていないし、モーセ五書に基づく律法が正しいものだとも思っていない。血統に正統性を求めるのも、無反省に律法を適用するのも違うと思っていただろう。「自分の命を愛する者」は、正統性や律法を防衛的に使う者を意味し「自分の命を憎む人」というのは自分を守るために正統性や律法を適用しない人と考えるのが適当だと思う。言い換えれば、選民性に執着すれば命を失うという意味になる。愛国者が国を滅ぼすという話でもある。自分あるいは自分たちを守ろうとするのではなく、全ての人の幸せを願わなければ明るい未来は来ないという考え方だ。現実は厳しいが、理想を捨ててはいけない。

イエスがこの世に留まっている間は、イエスは神と人との間に立つ仲介者にならざるを得ない。直接接することのできる人は限られるし、矛盾のない判断を続けることもできない。そういう意味では「人の子は上げられる」は不可避と言える。「自分の命を愛する者」の総意で磔刑になる。イエスが復活して聖霊が働くようになると「自分の命を愛する者」が「自分の命を憎む人」に変わる。自分が決してやってはいけない罪を犯した人間であることを自覚し、自分の命を愛することの罪の重さを知ることになる。

共観福音書は基本的に同時代の人間から見た史実の記述であるのに対し、ヨハネ伝は意味から再編集した正史のようなものだと考えて良いと思う。ヨハネ伝のイエスは人間だった時点で既に神性に満ちて語る。概ね合理的な解釈に基づいてルールを規定し、サクセスストーリーに仕上げていると取れる。史実として捉えようとするには無理がある。一方でヨハネ伝の意図に沿って読めばわかりやすい。

新約聖書の半分は書簡で、初期のキリスト教の教義解釈が記録されている。当然、同じ人間でも時期によって解釈は変わるし、人が違えば解釈も異なる。結局、ヨハネ伝を含めいくつもの解釈を参照しながら、自分で考えるしか無いのだ。加えて、聖書学者を含め膨大な研究成果も存在し、適切な範囲で参照して、自分の置かれている状況に照らして、判断する以外の道はない。正統性を尊重しながら、正統への依存を避けなければいけないということだろう。

福音を伝えるということは「天から声が聞こえた」と言うことと本質的に同じだと思う。それは私的な検証不能の体験の告白である。良い時もあれば悪い時もあるが、心に声が届いて私は幸せになったと告白する。よりよい未来はきっと来る。

※WikipediaのJesus predicts his death経由でWikimediaのカタコンベの絵を引用させていただいた。