新生活196週目 - 「突風を静める」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第12主日 (2024/6/23 マルコ4章35-41節)」。3年前の記事がある。マタイ伝8章とルカ伝8章に並行箇所がある。3年前の記事では話し言葉に触れている。3年前の記事は今自分で読むとそれなりに興味深かった。自画自賛ということではなく、私自身の興味を刺激するものだったということだ。

言葉については、何語と何語が似ている? 言語の「家族と親族」について解説!が参考になる。EU起点のグラフだから、セム語族のヘブライ語、シリア語、あるいはアラム語には届かない。日本から見ると、中国や韓国は違う民だったが、見た目にも言葉にも共通点は少なくない。一方、ロシアの人たちはかなり見た目が違うし、言葉も違う。大昔からある程度の接点はあっただろうが、大きな影響を及ぼし合うような接点は多くはなかった。所謂大航海時代になるまでは、異人との接点は無視できたといってよいだろう。一方、ガリラヤはヨーロッパ語族の民とセム語族の民の混ざり合うような場所の一つだっただろう。もう少し大きく見ると、イスタンブール・コンスタンティノープルを境とするヨーロッパとアジアの境界がローマ時代に大幅に東側にはみ出していたということで、ユダヤ人はアラビア系マイノリティでローマから見ればほとんど無視できるような人たちなのにやたらと民族意識が高い極右指向の国だったのではないかと思う。とは言え、ギリシャ語を話すユダヤ人という言葉もあるし、パウロはローマ市民だったことを考えると、現代で言えば左寄りのユダヤ人は少なからず存在し、ユダヤの地を離れて経済的に成功していた人もいたのだと思う。まあ、ローマに向かっただろう。ローマが遠すぎればギリシャが成功を目指す地なのだっただろうと思われる。もちろん、逆方向から見ると、辺境の地に挑むヨーロッパ語族の人もいたわけで、「向こう岸」の民はそういう人の一部だったのではないかと思う。人間イエスはその言葉から見ても相当左寄りで人権指向だが、その行動範囲はほとんど内側に留まっている。

福音朗読 マルコ4・35-41

35その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

東京でもニューヨークでもそうだが、現代でも同じ言語を話すその地のマイノリティが固まって住む場所は存在する。そういう場所に足を踏み入れる時には相当緊張する。福音のヒント(1)の「ゲラサ人の地方」はそういうイメージで捉えたら良いのではないかと思う。そんなところに布教で足を踏み入れるような行為は正気な業とは思えない。

まあ、実際にガリラヤ湖で嵐になることもあるだろう。「ゲラサ人の地方」に行こうなどと無謀なことをやろうとするからバチが当たったと考えた弟子がいても不思議はない。イエスに特別な力があることを知っていたとしても、イエスが動けば何もかにもうまくいくわけではないから、不安に思うのは自然だ。イエスが嵐を止めたのか、単に嵐が終わっただけなのかはわからないが、引き返さずに渡ったのは恐らく事実だろう。その後の5章の頭は「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」という話につながっている。

 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす
1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

想像すると、言葉が通じない集落に行って、異常者が暴れているというシーンは相当怖い。イエスは怖くなかったのだろうか。私は、彼が怖くなかったとは思えないが、霊による確信のほうが勝っていたのではないかと思う。誰でも一生のうちに何度か勇気が必要な瞬間には直面する。尻込みしてしまうこともあればリスクを取る時もあるだろう。ちょっと良きサマリヤ人の話を想起するが、イエスは霊に導かれてこの救いの使命を果たしたのだろう。単なる一信徒であっても、単なる一人の個人であったとしても、そういう瞬間はある。

扇動的に言えば、クリスチャンになれば善いことをする勇気が得られるようになり、良い結果を生んで他人を幸せにすることができ、その人自身も救われるということになるのだろう。

実際にそういう効果は期待して良い。

小さな善いことは聖書の言葉を繰り返し読んで教会に通うだけで習慣にできる。繰り返していれば、自然に善いことはできるようになる。大きなことは、当然失敗確率は高いが、挑戦を繰り返していれば成功できることもある。

一つ、大事に考えなければいけないと思うのは、その善いことの方向である。それは、国を守るとか教会を守るという方向に向かってはいけない。その向かう先は基本的に一人の人であった方が良い。その人の良い未来に向けて働くものであるべきだろう。それが、家族であるとか、クリスチャンであるとか、自国民であるとか集団を対象にすると、犠牲の許容あるいは犠牲の強要を導くことになる。もちろん、一人ひとりの人と社会や集団はつながっているから、簡単に切り離すことはできない。しかしゲラサの人(異民族)であっても、サマリヤの人(価値観の異なる同民族)であっても、愛の行いは善いのだ。教育や指導のように短期的に不愉快で長期的に効果が出ることもあるから、相手に理解されるかどうかもわからない。しかし、必要な時には恐れてはならない。

ゲラサの人のように愛には伝染性がある。同時に、時に湖の嵐のように事前のハードルを超えるだけでも困難なケースはある。霊が動く時は従わなければいけない。怖気づいてはいけないのだが、なかなか事前のハードルを超えることはできないのが現実である。時が満ちていないのか、それとも単に怖気づいているだけなのかは自分でわからない。

ただ、できなかったとしても罪を繰り返し犯したとしても、イエスは待つ。もしどうしても乗り越えられなかったら、もう一度仕切り直して別のことに挑戦してもだめなわけではない。

この一連の事件は、弟子たちの心には深く刻まれただろう。彼らには、その時、そこにいて見ることを使命として与えられていたのだと思う。そして、記録に残すことでずっと後になってその使命を果たすことができた。それで良いのである。振り返れば、ある種の恥ずかしい体験だが、だからだめだったということではない。しかしもし、船から降りて逃げてしまえば使命を果たせなかっただろうし、船から降りて逃げてしまえば死んでいたかも知れない。一瞬後のことは誰にもわからないが、御声に従うことから逃げないほうが良い。

※画像は、ゲラサ遺跡の戦前の古い写真で、Library of congressのRuins of Jerash (Gerasa). Ruins of Jerash. A general view from the north digital file from originalから引用させていただいたもの。Biblehubに転載されているPulpit CommentaryではJerashが地形的にこの物語の場所として適切と推定する説に触れられているが、ガリラヤ湖との距離は直線で55kmある。「イエスが舟から上がられるとすぐ」と合わない。遠すぎると思う。