新生活205週目 - 「永遠の命の言葉」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第21主日 (2024/8/25 ヨハネ6章60-69節)」。3年前の記事がある。並行箇所はない。

福音朗読 ヨハネ6・60-69

 60〔そのとき、〕弟子たちの多くの者は〔イエスの話〕を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・・。63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

福音のヒント(3)では、「霊肉二元論」に触れていて、「「肉」は神とのつながりのない人間のあり方を指し、「霊」とは神とのつながりの原理を指す」としている。わかりやすい解釈だけれど、この箇所で「肉は何の役にも立たない」と書かれている肉が何を示すかは難しい。ペンテコステで霊が降って異言を話したとしても、異言を話すものの肉が動いて発声しているか、あるいは肉である聞き手が霊の力で聞こえていたということかも知れない。イエスの教えの解釈としては、限界まで神秘的な方によっているものと取ることもできるが、イエスが人間として、肉のある形で生きたという点を軽視し過ぎなのではないかと私は思う。

加えて言えば、「御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである」は断定的で不遜だと思う。

イエスは神だから、全智全能ですべてを知っていて当然という解釈はありだが、ナザレで受け入れられなかった事例などを含め、人間イエスは決して全智全能ではない。聖霊は全智全能かも知れないが、2000年が経過しても目に見える形では神の国は来ていないことを考慮すれば、現実に合わない。一方で、日本でも「誰ひとり取り残さない」というメッセージが使われるなど、神の国は来つつあると感じさせる、あるいは確認させる変化はある。

私は、イエスとユダの関係性に興味がある。ユダを極悪人と見ることで自分をまともな方に位置づける気持ちは、イエスを十字架につけよと叫ぶユダヤ人の感情と変わらない。ユダを影にすることで、ペトロに光を与えるのは教団の勢力強化には有効だろうが、私はそこに留まっていたらいけないと思っている。

自分に見えている世界は狭いし、必ず歪んでいる。生きている人間で歪みの無い目を持つ人など存在しない。肉ある人間だからだ。解脱に憧れても肉の制約から逃れることはできない。人は死ぬのだ。

今年はB年。マルコ伝は恐らく最初は空の墓の記述で終わっていた。ありえないことでも、善いことは起こるというのが信仰の本質なのではないかと思った。

ヨハネ伝は事実に忠実な書物と考えることはできない。しかし、その極端な解釈が私達の脳を刺激するのだ。多様な解釈に接することで真実に近づくことができると考えてよいだろう。

68節でペトロが「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と言ったとされている。ペトロがこの時点で、もしイエスが本当に「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」と言ったとしても、理解できていたとは容易には思えないので、かなり盲目的な隷従だったか、あるいはもう一つの例え話で、やがて解き明かされるはずだからそれを待つしか無いと考えていたのかも知れない。そのようなテストをイエスがやったというのもにわかには信じられない。

biblehubから辿れる解説を読んでも、すっきりするような解釈は見当たらないし、どれもぼんやりしている。また、説教を検索しても他の箇所と比べてヒットするものが少ない。

もし自分がこの箇所の瞬間にそこにいて、もし「あなたがたも離れて行きたいか」と聞かれたら、勇気を振り絞って、先生、おっしゃっている言葉の意味が分かりません。どういう意味なのかを教えてくださいと言いたいと思う。もちろん、説明されればすべてを理解できるとは思わないが、理解できない言葉に基づいて「あなたがたも離れて行きたいか」と問われれば、離れて行きたくはないが、わからないことは分かりませんと言わないわけにはいかないと思う。理解できたら良いのにと思う。カトリックが福音朗読のルーチンにこの箇所を設定しているからには、一定の安定した解釈もあるのだろう。私には福音のヒントからは読み取ることはできなかったが、幸田氏の見解を聞いてみたいとは思う。