荒井献氏の訃報をきっかけに イエスとその時代 - 岩波書店 を図書館で借りて読んだ。
50年前、1974年の本で私が中学生の頃のものだ。小学生の後半から教会学校にも通っていたし、荒井献氏の名前は何度も耳にしたことがあったが、書籍を読んだことはなかった。砧教会2020年6月7日問題を起点として、4年ほど前から「新生活ブログ」を書くようになり、説教を受動的に聞くだけでなくいろいろ調べて自分の考えをまとめる習慣がついた。別に誰かに読んでもらうことを想定して書いているわけではないが、200本以上書いていれば、聖書箇所から検索にあたって読んでくださる方もいる。一度きりの方もいるが繰り返し読んでくださる方もある。
福音朗読を追っていると、何とも理解できない箇所にも当たるし、並行箇所を調べると矛盾も散見されるし、本当は何があったのだろうかと考え始めると途方に暮れる。
『イエスとその時代』に「はじめに」はなく、本文最初のページでは遠藤周作の『イエスの生涯』に触れていて、事実と真実の扱いについて荒井氏の考えが示されている。I方法の最後の部分で「以下において私は、できうる限り厳密な史料批判によってイエス伝承の古層を掘り起こし、これを史料として、この伝承を担った人々に視座を据えながら、十字架の死に極まったイエスの振舞に、この時代の歴史、とりわけ社会構造との関わりにおいて接近を試みるであろう。」と書いている。学者っぽい書き出しで正直に言って読みやすくなく、全部を読み切った後にもう一度読み直してやっと、ああそういうことだったのかと分かった。「あとがき」はある。そこでは「本書において私が試みたのは、イエスとその時代に対する歴史的接近である。」と書かれている。個人的には、一番最初にこのことを書いておいてくれればわかりやすかったのにと感じた。もちろん、読んでいる途中でイエスは何をしたのかへの真摯な研究姿勢とイエスが生きた時代だけでなく新約聖書が書かれた時代背景に対する分析の深さ、広さには圧倒される。
福音書以外にもトマスによる福音書が資料として用いられている。私自身はトマスによる福音書を読んだことはないが、Wikipediaによれば、「トマスによる福音書はイエスの言葉だけからなる「語録集」である」とあるので、改変が含まれていたとしても他の資料と突合すれば、事実としてイエスがどのような発言をしたのかには迫れるだろう。歴史的接近を試みるのであれば、聖典であるか否かは問題ではない。ほぼすべての史料に誤りが含まれているから、正典を中心とするとしてもその他の史料に当たることに問題はない。
いくつか驚かされた話題があった。最大のものは「悔改め」に関するもので、マルコ伝1:15に「時は満ち、神の国は近づいた、悔改めて福音を信じなさい」という記述がある。この「悔改め」は信仰者にとって必須の行為と思ってきたが、『イエスとその時代』ではイエスの思想の中心に置くことはできない可能性に言及している。改めて「悔改め」をコンコルダンスで見るとマルコ伝では2箇所(イエスの発言としては上記1箇所のみ)、マタイ伝、ルカ伝には多数でヨハネ伝では一度も出てこない。
その他マルコ伝12章の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という問答をどう取るかという解釈も興味深かった。
真摯に文章を発表するということを、ルター的な「大胆に罪を犯す」行為と氏は位置づけている。
各福音書の食い違いがなぜ起きているか、どこまで盛られている可能性があるかについて多くの示唆が含まれている。日本語を話す聖職者であれば恐らく誰もが読んでいる本だろうが、信徒やキリスト教に懐疑的な人にとっても良い情報源になると思う。福音書に違いが出る背景についても長くはないが触れられているので、既にある程度知識がある信徒であっても参考になるだろう。
私は、人間イエスが完全無欠であったとは考えていないが、それによって信仰が揺らぐとは思わない。逆に、聖書に書いてあることを妄信的に肯定しても自分の将来がひらけるとも思わない。事実は事実として整理できたほうが良い。