新生活206週目 - 「昔の人の言い伝え」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第22主日(2024/9/1 マルコ7章1-8,14-15,21-23節)」。3年前の記事がある。マタイ伝15章に並行箇所がある。

福音朗読 マルコ7・1-8、14-15、21-23

 1〔そのとき、〕ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。3——ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。——5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」6イエスは言われた。
 「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
 『この民は口先ではわたしを敬うが、
  その心はわたしから遠く離れている。
  7人間の戒めを教えとしておしえ、
  むなしくわたしをあがめている。』
 8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

神の掟はモーセの十戒に基礎を置くと考えてよい。

主が唯一の神であること
偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
神の名をみだりに唱えてはならないこと
安息日を守ること
父母を敬うこと
殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
姦淫をしてはいけないこと
盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
隣人について偽証してはいけないこと
隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと

現代でも概ね後半5則はほぼ全世界でコンセンサスが取れていると思う。今日の福音朗読では省略されているが、「父母を敬うこと」という第4則の口伝による例外事象の悪用について触れている。イエスがイザヤ書29:13を引用しているのは印象的だ。律法学者はイザヤ書にも精通していただろうから、かなり痛いところをつかれたと考えてよいだろう。

ファリサイ派の人々や律法学者が神の掟を正しく執行できるように動いていただろう。概して真面目な人だったのではないかと思う。「人間の言い伝え」は判例と言い換えても良く、過去の判断と矛盾しない判断を求められる立場にあったはずだ。現実問題として十戒だけで良し悪しの判断をすることはできないので、「人間の言い伝え」は重要だ。

一方で、人間の判断には間違いもあるし、恣意的に異なる判断をしてしまうこともある。特に権力者の都合で判断が曲げられることは今日でも散見される。有力者は法的に無罪ならOKで、一般人は違法であれば無害な行為でも糾弾される。汚れた手で食事をすることが望ましくない行いと考えられていたとしてもそれを糾弾するのは糾弾したい理由があるからだ。

イエスはそれを「人間の心から、悪い思いが出て来るから」に求めている。

福音のヒント(2)に「ファリサイ派は律法を熱心に学び、厳格に守ろうとしていたユダヤ教の一派でした」と書かれている。サンヘドリンではサドカイ派が主流で、ファリサイ派も一定の力をもっていて、判断が一致しない事例はたくさんあっただろうが、ファリサイ派も律法学者も刑の執行に関与する集団に属している。一般人からしたら機嫌を損ねたくない相手だ。ちやほやされている間に自制すべき枠が緩むのは想像に難くない。

イエスの時代、イスラエルは属国としての限定的な事由を有していた。ヘロデアンティパスは比較的うまくローマと付き合えていて、サンヘドリンも自治を司ることができていた。果たして、当時の統治機構はどうだったのだろうか。上り調子の時にはインフラ整備が進み、民の暮らしも豊かになる方向に動く。下り調子の時は、既得権益者が凋落を恐れて権力にしがみつく。一般人にしわ寄せが行きやすい。「洗わない手で食事をする」者の上に「人間の言い伝え」を守る者を置くという考え方は命より権威に重きを置くと考え方で、彼らは民が「洗わない手で食事をする」イエスの集団に従われては不都合である。

私はファリサイ派の人々や律法学者は自分たちは神の教えに従って善いことを行うものだという自負心があったと思う。いろいろな人がいただろうが、権力基盤を確固たるものにするために苦労していただろう。

民の生活が向上傾向にあれば権力は安定しやすいがローマの豊かさを目にすれば、サンヘドリンやヘロデの無力さが明らかになる。反政府、反体制活動は勢いづく。逆に体制側は選民思想を喧伝するようになる。そして、愛国心をテストする試験紙のように「洗わない手で食事をする」か否かを判断基準に使うようになる。本人には自覚は無いかも知れないが、保身にほかならない。保身から出た言葉は他人の言葉であれ、自ら出した言葉であれその人を汚すと考えて良い。合理的だと思う。

このシーンに出てきたファリサイ派や律法学者はこの後どうなったのだろうか。悔い改めて本人のなすべきつとめを見いだせたか、一層排他的になったかはわからない。十戒に戻れば、個々人は十戒を守ればよいが、権力側に立つ者は十戒を個々人が自然と守れるような社会を作り上げていく使命がある。現代であれば、個々人は十戒を守ればよいが、主権者として後半5則が誰でも、国籍や人種、性別などに関わりなく自然と守れる社会の構築に貢献せよと命じられていると考えるべきだろう。あえて「父母を敬うこと」を外したのは、「父母を敬うこと」を否定するわけではないが、血を前提とする制度は差別の拡大につながると思うからだ。

今風に言えば、イエスは人々に隷従者ではなく主権者の自覚を持てと言ったことになる。ファリサイ派であれ一般民衆であれ主権者としての質の高さを保てと教えたと考えてよいだろう。福音のヒント(3)で「イエスは「分離」ではなく「交わり(コイノニア)」を重んじました」と書かれている。良し悪しの裁きによって「分離」するのではなく、共生をめざすことをイエスは実践していたのだと思う。

※冒頭の画像はMark’s Gospel D. Jesus confronts uncleanness image 7 of 7. a dispute with the pharisees.から引用させていただいたもの