新生活208週目 - 「ペトロ、信仰を言い表す~イエス、死と復活を予告する」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第24主日 (2024/9/15 マルコ8章27-35節)」。3年前の記事がある。マタイ伝16章とルカ伝9章に並行箇所がある。

福音朗読 マルコ8・27-35

 27〔そのとき、〕イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

今日の箇所で気になったのは、29節のペトロの告白と31節の受難告知、特に「人の子」という単語である。引用したWikipedia(英語版)は自動翻訳だけでもかなり読み応えがある内容で、福音のヒント(4)で「31節の「人の子」という言葉」について触れられているように、Wikipediaでもダニエル書7:13に触れられている。新約聖書原文では単純に人の子と訳すべき単語が書かれている。人の子の解釈は収束しないので、一般の信者は自分の解釈をもつとしても、その言語化は棚上げせざるを得ない。

コンテキストから考えれば、イエス=人の子 ということになるだろう。同時に神の子である人の子という解釈も多数派となるだろうが、福音書では神の子である人の子という表現は用いられていない。

ペトロの告白では、「あなたは、メシアです。」とあってこれをイエスは受け入れた上で他言無用といったと書かれている。復活が知られるまでという時限付きの他言無用だったのか、無限定のものだったかはわからない。福音のヒント(3)で「「あなたはメシアです」の「メシア」はギリシア語原文では「クリストスchristos(=キリスト)」です」とあるように原文ではΧριστός (Christos)でStrongsコンコルダンスでは538回頻出する単語とされている。

連続した場所なので、キリスト=人の子 と読める。

その上で、人の子、キリストとは何かが問われることになるが、新共同訳に限らずこの単語にメシア(メサイア)をあてている箇所は複数ある。その訳を充てるときイエスは再臨し世を正すという意味が込められているように感じる。しかし、イエスがそういう意味でキリストという言葉を受け入れ、自らに人の子という称号を与えたのかはわからない。

これは、信仰告白や使徒信条を言い表す時に自分が何を告白しているかわからずにただ念仏のように唱えているだけと言わざるを得ない事態を招く。

改めてこの箇所を読み直すとなんだか変だ。34節に「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とイエスが言ったと書かれているが、イエスが磔刑になることは誰も知らないし、そんなことを言われても意味が分かるわけがない。もちろん、弟子たちも同様だろう。32節の「そのことをはっきりとお話しになった」の内容の中に具体的に磔刑になることに言及していたとしたとしたら、ペトロがいさめたように、その道は避けられるはずだから何とか考えましょうと言うほうが自然だ。しかし、イエスからそれは神の計画であって私達が変えられることではないと言われたら、とりあえずその場は従う以外にはないだろう。群衆は、そんな背景は知る由もなく、34節からの部分を訝りながらも心に留められたのは弟子たちだけだっただろう。この記述があるのは、イエスの復活後に弟子があれはこういうことだったのかと思い出したことで書かれたと考えるのだが妥当だと思う。

福音のヒント(4)で「この受難予告を特別な未来予知能力によるものと考える必要はないでしょう」と書かれているが、もし実際にこのやりとりがあったとしたら、特別な未来予知能力があったと考えないわけにはいかない。解釈としては、イエスと共にある霊が知らせているとすることはできる。

イエスはいつから自分が磔刑になって復活することを知っていたのだろうか。最初から知っていたが、まだずっと先の話だったのが、いよいよ残り僅かになったので、話し始めたという解釈はあるだろう。シナゴーグで講演はしていて、モーセ五書に当時の主流と異なる解釈を行って人気があった。神は本当はこういう意図でこの世に影響を与えたのだが、取次をするものが少しずつ自分に都合の良い解釈を足しているうちに本来の道から離れたのだと言われれば、じゃあ本当はどうなんだということが知りたくなる。新約聖書であってもそれは変わらない。

イエスは、本当に自分のことを「人の子」と言ったのか、それとも福音書記者がダニエル書に影響を受けて使った表現なのか。実際に何があったのか、その含意は何なのか知りたくなる。多数の先達が真理を追求し、そして異なる解釈を与えてきた。聖書の訳もその一形態で、Χριστός (Christos)にメシアという訳を当たるか否かは解釈だ。人の子は直訳(といっても男親の子と訳をあてることもできる)だから、その言葉自身には解釈が入っていない。気になったら原典に当たれというのは自然な流れで、2世紀のパピルスの写本などが研究されている。どこかにあるのかも知れないが、最初の原本はいずれも見つかっていないか、原本として特定されてはいない。この箇所が書かれた時の原文はどうだったのかはわからない。

現時点では、文書の記述はこの通りだったと仮定するしかない。そして、文書化された時にどういう解釈が加えられたかもわからないので、そのままの事実があったと仮定するしかない。その上で、解き明かしを担う者や福音のヒントなど先達の解釈、解説書などを参考に自分の解釈を加えるしかないのである。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」をどう解釈するか。聖霊は常に送られてくるわけではないが、いつ送られてきてもそれに従う準備を整えるよとしか私には取れない。本当に大事だと思うことに対しては、嘘をつかない生き方をするということだろう。イエスは愛に生きたが、権威におもねることはなかった。その後に従えばやはり権力から抹殺される運命にある。ただ、愛がない正しさは世を前進させない。何が正しいかも容易にはわからないが、正しいだけでは足りないのである。

象徴的なのは、ペトロの諌めである。それはイエスへの愛だったに違いないが、神の計画の実現への阻害要因だったのだ。なにか決断を下すとき、もしその選択をイエスに問うたら「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われる可能性を念頭におくべきなのだろう。その上で、自分を信じる以外の道はない。

※画像は、英語版「人の子」経由で、Wikimediaから引用させていただいたもの。