今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第26主日 (2024/9/29 マルコ9章38-43,45,47-48節)」。3年前の記事がある。マタイ伝18章、ルカ伝9章、17章に並行箇所がある。3年前の記事の最初の部分を読み直すと、全く問題は解決されていないことと自分の中での思いが全く変わっていないのに驚く。3年も経過すれば考え方は微妙に変わっていくのが普通で、そうでないことから考えると、課題が極めて重大であるということだ。
福音朗読 マルコ9・38-43、45、47-48
38〔そのとき、〕ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 39イエスは言われた。
「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。
わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」
38節から40節は現実に重ね合わせると興味深い。本当にこういう発言があったのだろうか。一つの解釈として、ペトロの教会と違う教会でイエスの名を使って活動成果を上げているときに止めてはいけないという話かも知れない。統一教会はイエスの再臨を唱える立場で、見方によっては「お名前を使って悪霊を追い出している者」となる。彼らに対して「やめさせてはならない」とイエスは言うであろうか。あるいは、過去のプロテスタントの出現時でも同じ問題は生じる。
「やめさせてはならない」という言葉によって誤った道に進んでしまう犠牲者は出るだろう。
「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」の意味は極めて大きい。当時のユダヤの権力構造に起因して差別的な扱いを受けていた人々、ローマ支配の影響で苦渋を舐めていた人々が存在する中、平等と愛のメッセージを伝えることはマクロで見れば、犠牲者を減らす方向に動いたと判断して良い。初期の弟子たちは殉教者となった。福音を伝えたことによる犠牲者と言える。殉教者として美化することも尊敬することも止められないが、捨象すれば殺された人々でありイエスの教えの犠牲者と言って良い。ただし、復活のイエスへの信仰が堅ければ殉教で命を失うことは復活のイエスに従って時が来たときに復活すると考えていただろう。多分、いくばくかの不安は残っていたのではないかと想像する。最初は自分の意思で道を選び、途中で変心しても引き返すことができなかった人もいるだろう。
人間イエスはどう考えていたのだろうか?
死んで終わりではないとは考えていたと思う。霊は死んで終わりではないと彼に告げていただろう。「やめさせてはならない」という言葉によって誤った道に進んでしまう犠牲者が出ることは分かっている。間違った道に導く勢力に騙されてしまった人が出ても救われないわけではないと考えていたのだろうか。
現代であれば、ツボを売って、金を集めて被害を拡大する方向に動いてしまっても許されるのだろうか。敵ではないのだろうか。戦争を推奨するロシア正教会の指導者、構成員は大丈夫なのだろうか。その行為の結末として命を失うものの出ているのだから、感情的には許しがたいものがある。しかし、本人は真摯にイエスの教えにしたがっているケースは少なくないだろう。
イエスは、まずイエスの名を出してメッセージを伝えるということを優先して良いと判断したのだろう。現実的で怖い感じもあるが、確かに社会を動かした。そして今も影響を与え続けている。
「やめさせてはならない」に正面から向き合えば、イエスの名で福音を伝えられたとしても、それぞれがそれは本当にイエスにつながる道なのか、個々が常に直接神に問わなければいけないということなのだと思う。真実はすべて明らかになることはない。覆われたベールを外せたと思っていても勘違いである可能性は常にある。それでも真実一路を目指すのが良いのだろう。道は険しく見えても、真実を求め続けることを推奨する。
心底良かれと思ったことでも失敗に終わることもある。誰でも間違いは犯す。深刻なことも軽微なこともあるが、それを乗り越えて生きれば良い。再び罪を犯すことのないように環境を整える必要はあるが、厳罰や排除で問題は解決できないことを歴史は証明していると思う。共に生きることを基本におかないリーダーを選出してはいけない。強いリーダーを求める誘惑に落ちてはいけない。周囲の声に耳を傾けつつも、誰かに依存してはいけない。
今日の箇所の後半部分は、集団的搾取に関与していることに気がついたら足抜けしなさいと読むこともできる。足抜けすれば資産を失うだけでなく、身体的危機に直面するかも知れない。それでも、真実に歩むことのほうが良い。自分の国が侵略戦争を行うようになったら、という問いを平時に考えておくことは意味がある。真実を求めている教会ですら、事実に向かい合えないカルト集団に堕ちることはあるのだ。平時の内に、間違っていると思われることに間違っているという声を上げたほうが良い。