今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第28主日 (2024/10/13 マルコ10章17-30節)」。3年前の記事がある。マタイ伝19章、ルカ伝18章に並行箇所がある。英語版のWikipediaがある。3年前の記事を読むと異議があるわけではないが心境の変化はある。
福音朗読 マルコ10・17-30
17〔そのとき、〕イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
《28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」》
Wikipediaに「約 40 年後、ローマ軍がエルサレムとユダヤの大部分を破壊したことはわかっています。多くのユダヤ人が富と命の両方を失いました(Google翻訳)」という引用記載(A Rich Ruler Makes a Poor Choice)が興味深かった。なるほど、財産があって、かつ誠実であったとしてもどうなるかはわからない。3年前に私は「子供の時から守ろうと努力してきました」と書いている。振り返れば、諸条件が整っていたからそう言えたのではないかとも思うのである。
ユダヤ教正統派からは、ガザ侵攻等に対して「殺すな」という律法に反しているので反対だという声が上がっていると聞く。この青年が現代に生きていたら、戦争に賛成しただろうか、反対しただろうか。安全を含めた権益を守る側に自分をおけば、戦争を支持することになるだろう。また、そういった自分の意志にかかわらず兵役に取られれば人を殺すのが仕事になる。今の紛争は防衛の範囲を超えて無垢の子供の命さえ奪うものだから、この青年が現代に生きていたら、教えを守ることはできないだろう。
現代的コンテキストで言えば「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」はパレスチナの人々を支えよという意味にも取れる。現代でも二国共存の立場に立つ人もいて、上手にそちらに向かうことができれば、不幸になる人は減るだろう。テロで親族や知り合いを失ったユダヤ人は少なくないから、平和共存を求める人を糾弾する声は大きい。ただ、その声の裏で、占領政策やヨルダン川西岸地区への入植など、パレスチナの人々に対する人権侵害を繰り返してきた歴史的罪へ向かい合う姿勢が欠如している。ハマスやヒズボラが正義だとは思わないが、勝ち続けて存続を図ろうとしたユダ王国も北イスラエルも滅亡した史実に現イスラエルは向かい合う必要があるだろう。仮に個人として立派な行いができていたとしても、それが持てる資産や権力に依存したものであれば、本物ではないということだ。それを踏まえて「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」を読むと、なるほどと思わされる。イエスは、この人間という括りに自分を含めていたのではないかと私は思う。信者や教会は人間イエスを含めて神格化してスーパーパワーに描いているが、オールマイティーではない。しかし、霊は宿っていて、神は何でもできると理解していたのだろう。
「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」の答えが得られるなら誰でも知りたいだろう。この青年は答えを得られた稀有な例だが、幸せにはなれなかった。そのHow Toは存在しない、達成不可能と考えたほうが良い。それでもなお律法は守るべきで、同時に自分の問題として取り組むのではなく、苦しむ人々全てとの関わりの中で共に生きる道を探るのが良いのだろう。何も持たない人でもそういう生き方ができる人はいる。
現実社会にはネタニヤフのような人間は存在する。いくら善の世界に生きたいと思っても、備えは避けられない。凋落期をどう過ごすかという観点ではイスラエルはまたとない反面教師となる。私達もありもしない美しい日本というような扇動に乗ってはいけないし、冷静に安全を手に入れる方策は探らないわけにはいかない。今の時代であれば、持続性がキーワードと考えてよいだろう。
※画像は、Wikipedia経由でWikimediaのChrist and the young rich rulerから引用させていただいた。実際の青年も育ちが良くきらびやかな装いだったのだろうか。豊かな暮らしを経験してしなうと、自分が誰とも同じただ一人の人間に過ぎないことを自覚するのは難しくなる。凋落期の自覚は恵みと言っても過言ではないと思う。力が失われ続けても、やれることはなくなりはしない。善く生きることは誰にでもできる。