新生活220週目 - 「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「待降節第2主日 (2024/12/8 ルカ3章1-6節)」。3年前の記事がある。マタイ伝3章、マルコ伝1章に並行箇所がある。

福音朗読 ルカ3・1-6

 1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、 2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。3そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。
 5谷はすべて埋められ、
 山と丘はみな低くされる。
 曲がった道はまっすぐに、
 でこぼこの道は平らになり、
 6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」


3年前の簡潔な記述は、今読み直しても私はこういう風に考えているという感じは変わらない。

ちなみに第一朗読のバルク書は私は全く馴染みがなかった。新共同訳聖書には入っているので、最初から最後まで目を通したのだが、どうもしっくりこない。biblehubのベースとなるBSBにはバルク書は含まれていないので、関連性も調べられない。英語版Wikipediaによれば、カトリックでも正教会でも使われるがプロテスタントでは使われない書物と書かれている。バビロン捕囚の時代で、その時代にあっても何とか経済力を維持し、義援金や取り返した資産等を祖国に送った人の話のように感じられた。立派だとは思うけれど、預言的な印象は薄かった。とは言え、「神から与えられる義の衣を身にまとい、頭に永遠なる者の栄光の冠をつけよ。」は洗礼者ヨハネのメッセージとどこか通じる感じはある。

イエスがバビロン捕囚をどう捉えていたのかは良くわからない。Google Gemini君に「イエスはバビロン捕囚をどう捉えていたか」と聞いたら「イエス・キリストが直接バビロン捕囚について言及した記録は、現存する福音書や新約聖書には見当たりません。」というとてもダイレクトで予想通りの答えが返ってきた。一部を引用する。

イエスの教えとバビロン捕囚

とはいえ、イエスの教えの中には、バビロン捕囚の経験から得られたイスラエルの信仰と深く結びついた部分があります。例えば、

  • 神の約束: イスラエルの人々は、バビロン捕囚の苦難の中でも、神が必ず彼らを救い出し、約束の地に戻してくれると信じていました。イエスもまた、神の約束の実現者として現れ、人々に希望を与えました。
  • 新しい契約: イエスは、旧約聖書の契約を新しい契約へと高め、より深いレベルでの神との関係を約束しました。これは、バビロン捕囚によって失われた聖殿や律法の中心的な宗教から、心の内なる信仰へとシフトしていく過程と関連していると言えるでしょう
  • 神の愛: イエスは、神がすべての人のためにご自身の命を捧げられたことを示すことで、神の無限の愛を明らかにしました。これは、バビロン捕囚の経験を通して、イスラエルの人々が深く理解していた神の憐れみとつながります。

    Gemini は不正確な情報(人物に関する情報など)を表示することがあるため、生成された回答を再確認するようにしてください。


 下線は筆者が引いたものだが、この解釈はとてもしっくり来る。別にGemini君を信じているわけではないが、このまとめ方にはかなわないなあと思う。

 一方、洗礼者ヨハネがイエスの前に現れた最後の預言者と考えると、意識は旧約のままで、正しく Make Israel Great Again を言っているのだと思う。そういう意味では、バルク書に通じるものはあるし、イザヤ書40章の引用からもユダヤ教的な救済感を色濃く感じさせる。多分、本音ではイエスが本物かどうか確信がなかったのではないかと思う。

 洗礼者ヨハネにはちょっと申し訳ないが、これで露払いは本質的には終わった。これから、イエスの時代が始まる。福音のヒント(4)の「新約聖書は洗礼者ヨハネを、イエスの先駆者、イエスの到来を準備した人として描きます。わたしたちが見つめるべきなのは、洗礼者ヨハネではなく、すべての人の救い主として来られる「主」イエスのほうなのです。」に共感する。

問題は再臨をどう捉えるのかだ。「王であるキリスト」の祭日化と暦上最終週への移動で再臨を強く意識させるようになったが、最後に再臨のイエスが全てを変えるという考え方には抵抗感がある。むしろ、イエスはできる限り自力で理想社会に近づけなさいと問いたように感じられるので、あまり再臨を強調しすぎるのは良くないように思う。

どういう形なのかはわからないが再臨はあるだろう。それはそれとして、日々を誠実に生きるということは、道をまっすぐにせよという声に、愛を基軸にして答えていくことに他ならないのではないだろうか。それは、俺達が成功者になる未来ではなく、愛が満ち溢れる世界でなければいけないということなのだと思う。既に選ばれているものすら惑わそうとする勢力から慎重に距離を置かなければいけない。荒っぽい扇動者も怖いが、砧教会の金井美彦牧師や役員のように善人ぶった優しい感じの扇動者はさらに怖い。事実に反する扇動は、誰かが牽制しなければ犠牲者を生む。目を覚ましていなさいということだろう。

蛇足となるが、ここのところ、シリアの反政府勢力が勢いを増している。イスラエルがヒズボラと戦っていることで、シリアの政府側に供給される戦力が削がれているのが原因ではないかという分析があった。絶対にこの状態は嫌だと考えている人が一定人数以上いなければ内戦は起きない。嫌だと考えている人が政府の打倒に向かうような扇動行為もあれば、権力者側が腐敗することもある。巻き込まれてしまう人は不幸だ。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』というメッセージはシンプルで力強いが、それが反政府勢力を生み内戦に発展してしまうと人の命が失われる。ヨハネが意図しているかどうかに関わりなく暴走してしまえば止められないから危ういことこの上ない。一方で権力側がリーダーを拘束したり殺害したりすれば、負のエネルギーが蓄積されてしまう。非人道的行為に非人道的行為で応酬していてもそれは長期で見れば決して出口に至ることのない破滅への道だ。現時点では、ハマスを応援してはいけなかったと考えるパレスチナの人は少なくないだろう。こんなにもひどい目にあわすにすんだのではないかと考えるのは自然だと思う。しかし、イスラエルの国家としての勝手な入植や占領行為といった侵略行為がなければ、反イスラエルの機運も高まらないだろう。イエスには民衆を煽って政府の転覆を狙う道もあったと思うが、それが望ましい未来を生まないと考えていたのだろう。2000年を経ても、その思想は残った。それでも、人より有利な状態でありたいと思う人間の欲を制することはできていない。自国優先主義が勢力を拡大しつつある時期にあっても、心して望ましい道を進む覚悟をしなければいけない。権力の腐敗を警告するのは良い。しかし、打倒に優先順位をおくのではなく、力による解決でなく未来のことを考えなければいけない。なんとなく敵を倒せば明るい未来が来るような気がしてしまうが、そんなことはない。

ヨハネが引用した「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」ではなく、イエスは一人ひとりの小さな愛の積み重ねで救いを感じる社会をつくろうと呼びかけていたのだと私は感じている。長期で考えれば、その道しか取り得ないのではないかと思う。

※画像は、英語版WikipediaのJohn the Baptist経由でWikimediaから引用させていただいたもの。勇ましい感じがあるが、今の私には旧約的に見える。イエスが到来する前だからしょうがない。人間、いつ、どのようなコンテキストで生まれてくるかは自分では選択できないのだから、生まれてきた以上、やれることをやるしかない。イエス自身は勝利を目指せとは言っていないと思う。