主の祈りの「我ら」とは誰のことか?

hagi2021/09/06(月) - 16:01 に投稿

主の祈りは「天にまします我らの父よ」という呼びかけから始まる。私は数万回この祈りを繰り返してきた。常々、今どき神を「父よ」と呼ぶのも何だかなあという感じはもっていたが、昨晩「我らの」という言葉が急に気になった。この「我ら」とは誰のことだろうか?

私が長く関わってきた砧教会では以下の文を主の祈りとして用いている。かつて自由学園でも使っていた主の祈りと同じ文だ。Wikisourceの主の祈りでは「プロテスタント1880年訳(文語)」として最初に出てくる。

天にまします我らの父よ
願わくは
御名をあがめさせ給え
御国を来たらせ給え
御心の天に成る如く地にもなさせ給え
我等の日用の糧を今日も与え給え
我等に罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦し給え
我等を試みに遭わせず悪より救い出し給え
国と力と栄えとは限りなく汝のものなれば成り

アーメン

小学生の頃に教会学校で主の祈りを教わり憶えて繰り返し祈ってきたが、今も実は良くわからない。毎晩床についてから寝る前に祈る。最初は文通りに祈る。そして2回目はそれぞれ意味を考えながら祈る。出だしの「天にまします我らの父よ」は「神様」という呼びかけと同値だと考えてスルーしてきたが、「御名をあがめさせ給え」はヤハヴェの御名をあがめさせ給えと繰り返す。Wikipediaでも触れられているが、実はヤハヴェという神を表す固有名詞には文字はあるが発音は失われているので、日本の文語訳ではエホバという音が割り当てられた歴史もあり、学者はヤハウェなどが確からしいとしているものの「我らの父」の読みは本当はわからない。我らの父である神の名はユダヤ教、イスラム教の神と同一である。「御名をあがめさせ給え」ってどういうことだ?と考えてそこで長考に入ることもある。いつか、どんなふうに考えたかを書く機会もあるだろうが今日はこれ以上触れない。

最初に書いたが「天にまします我らの父よ」の「我ら」は誰かが今日の問いだ。

わたしたちという言葉は、例えば教会で声をあわせて祈る時は、そこに集っている人のことだろうと考えるのが自然だ。もう少し広く病床にある仲間を含めるとか、人によっては全ての人と考えるかもしれない。逆に「わたしたち」に含められるのは不快だと思う人もいるかもしれない。

砧教会の現牧師はしばしばわたしたちクリスチャンはという言葉を使う。少なくともその言葉を発する時は私は(彼は)クリスチャンであるという意味を含んでいる。そして「わたしたちクリスチャン」でない人の存在を前提としている。

改めて、「我らの父よ」はなんだろうか。神にはヤハヴェという固有名詞があり、ユダヤ教もイスラム教も同じ固有名詞を持つ神を神としている。だとすると、同じ父の子であるユダヤ教徒もイスラム教徒も「我ら」に含まれるのだろうか?タリバンを暴力集団と位置づけている人はその構成員を「我ら」の内側には位置づけていないだろう。カトリックはプロテスタント教会の正統性を認めないから、厳密性を問えばプロテスタント教会の会員はカトリック教会の「我ら」には含まれない。少なくないプロテスタント教会の会員はカトリック教会の信徒を「我ら」に含めているだろうし、恐らくカトリック教会の信徒の中にもプロテスタント教会の会員を「我ら」≒同じ仲間に含めているだろう。プロテスタント教会という組織はカトリック教会の会員を「我ら」に含めるわけにはいかない。違いがあるから別の組織を構成している。

わたしたちクリスチャンはという表現は実は極めて差別的でナショナリスティックな表現だ。わたしたち日本人はと表現する政治家は安倍氏のようにしばしば「あんな人達」と思う気持ちから自由になれない。彼が「あんな人達」と断ずる非国民は「わたしたち」の枠内に含まれないという考え方と、わたしたちクリスチャンはという表現は同じ暴力性を有している。責任ある立場の人が無意識に口に出すようになったら、それは独裁者の罠に落ちていると考えるべきだろう。事実に向き合わずに自分の無謬性を主張するのはファリサイ派的所業である。

イエスが祈りの型を主の祈りとして教えた事実はあったと思う。神とのダイレクトチャネルが開いていなければ一方的に祈る(か、ヨブのように愚痴るか)以外の手段は無いからだ。ただ、イエスは本当に「我ら」と教えただろうか。ひょっとしたら全ての「我らは」単数形だったかも知れないと思う。一方、教会は組織維持の観点で見れば「我ら」が望ましい。アウトになる恐怖で縛ることができるからだ。過去の西洋の歴史を振り返ればどれだけその脅迫が乱用されてきたかに気づく。

今の私は砧教会では別帳会員なので、帰る家(教会)のない自称クリスチャンでアウトサイダーである。その状態はつらいことだが、これも恵みなのだろう。一つ上げれば恥ずかしながらアウトサイダーになって初めて「わたしたちクリスチャンは」という表現の暴力性に気付くことができたことに感謝している。恐らく私に対する恵みなだけではなく、牧師にとっても、その教会に属する会員にとっても恵みなのだろう。現実は甘くない。

現実には、信者も転ぶし、牧師も誤りを犯す。砧教会の設立時の浅野牧師は、聖餐式の時に今の自分の状態がふさわしいと思うのなら洗礼を受けていなくても聖餐に参加しなさい、逆に、ふさわしくないと思うのなら会員であっても辞退しなさいという意味の表明をしていた。クリスチャンであることを今の状態を表すものとしたということだろう。日本基督教団の執行部は現金井牧師が按手礼を受けるにあたって、浅野牧師の方式を継承せずに、聖餐式への参加資格を受洗事実によって判断するように誓約させたと聞いている。組織運営上、それが踏み絵として必要だと考えているということだ。そこに立脚すると洗礼を受ければ破門されない限りその人は永続的に「わたしたちクリスチャン」となる。同じく按手礼さえ受ければ取り消されない限り「わたしは牧師」となるのだ。私は、バカバカしいと思う。律法主義そのものだ。「わたしたちクリスチャン」を身分とするのは免罪符と通じるものだ。

突き詰めれば「我ら」など存在しない。「我ら」という概念は(教会)組織が作った隔ての中垣である。

コメント

洗礼という儀式も、按手礼という儀式も、ある意味では品質基準となる。リーダーが腐って排除に応用すれば邪悪に機能するが、個人にとっては目指すべきハードルが提示されれば、それが励みになる。

例えばロザリオや数珠は本来いらないものだが、あると信心を呼び起こす効果はあるだろう。フランスのように法律で禁止するのが本当に良いことなのかどうかはわからない。着用の義務化を禁止するのは合理的だと思うけれど、所持の禁止はせめてアファーマティブ・アクションとしての時限立法に留めるべきではないかと思っている。バランスが崩れたと思われれば依存心の呪縛を解くためにアファーマティブ・アクションはあって良いが、恒久的である必要はないように思う。