今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「三位一体の主日 (2022/6/12 ヨハネ16章12-15節)」。三位一体の主日(Trinity Sunday)はプロテスタント教会では特別な日ではない。初代教会でも特別な日ではなかったようだ。ペンテコステ後から待降節の前までの約半年を三位一体節と位置づける。ちなみに、私の人生を一変させた2020年6月7日は三位一体の主日だった。
冒頭の画像は、The Holy Trinity with crownという絵画。神(父)とキリストと聖霊が描かれている。「霊が鳩のようにご自分に下ってくる」という箇所があるので、聖霊を鳩にして描くのは自然だとして「父」は絵にすると違和感がある。十戎では偶像を作ってはいけないと書かれているので絵にしてはいけないはずだし、神を表す文字の読みは失われている。本当に形はあるのだろうかと疑問に思う。創世記一章には次のような記述がある。
26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。
そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、 地を這うものすべてを支配させよう。」
我々って何だ?というところが引っかかる。
現代的に解釈すれば、神はコンピュータゲームの会社(創造主)でシナリオライターやエンジニアが人間をモデルにして自律的に動作するゲームを作る。ゲームの登場人物に対して天啓を与える機能が埋め込んであって、ゲームの登場人物には神の存在はわかるが、ゲームの登場人物の活動範囲はゲームの中に限られるといったイメージだろうか。そうだとすると、聖霊は登場人物への通信路となり、人間イエスは登場人物(被造物)の一人で常設の通信路が開いていたというような解釈が成り立つだろう。三位一体の神の概念は、昇天のイエスは依然として被造物の一人だが、この世からは出ていて時間を越えて存在し続け、創造主とつながりながら全ての被造物に対して通信路を開くことができるような存在と考えることもできる。神と人とはイエスを通してつながることができるというイメージ。神は、被造物を別の場に移す力があるというのが信仰で、選ばれればこの世に存在する制約(死)から開放されるというモデル。
単なる勝手な類推にしか過ぎないが、神は世界(この世)の外にある存在だが、何らかの形でつながっているというイメージは子供の頃から持っている。この世の理は科学を追求することで明らかにしていくことはできるが、外のことは分からない。キリスト教の教えは、この世を専制と隷従に向かうのではなく、愛を基準にする方向に向かえということ。キリスト教の天国はイエスが行った場で、創造主がいる場ではないと考えることもできる。何らかの場間の移動方法があるかも知れないが、選びは創造主の専権事項と考える方がもっともらしい気がする。この世でない場もイエスが行った所以外にもあるかも知れないし、無いかも知れない。現実には、私達はこの世を生きているわけだから、生ある限りこの世で生きていくしかなく、どういう方向にこの世を変えていこうかと考え、行動する以外の道はない。愛と真実に基づく社会の構築に向けて歩むというのが私の信仰だ。
福音朗読 ヨハネ16・12-15
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕12「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
ヨハネ伝の告別説教では、イエスは自分が行くところを知っているように書かれている。日本基督教団の信仰告白には「死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」と書かれている。今の私は、この「全能の父なる神の右に坐したまへり」に違和感がある。一方で「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げる」には違和感は感じない。愛の世界に向かう道を示す声はある。現代的に言えば、何らかの脳への働きで、一定の法則はあるだろう。教会にはその奇跡が起きる可能性を高める役割があるのだろう。
福音のヒント(3)には『「唯一の神が父と子と聖霊である」という三位一体の教えは、学者が頭の中で考え出した教えではありません。イエスの弟子たちの救いの体験をもとにして、古代のキリスト教の発展の中で最終的にまとめられた表現なのです』とある。当時の知性の届く範囲での誠実な論理的帰結だと思う。一方、現代では持続可能なバーチャルな空間、場を構成する技術をある程度確立している。近い将来に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」と表明できる可能性はある。逆に、自分たちが被造物として作られた場に生きている可能性を想像することは容易になったと言えるだろう。福音のヒント(4)で『「イエス」=歴史の中で一回限り。明確な言葉と生き方をもって語りかける』とあるように、イエスは2000年前にこの世の登場人物として存在し、強いものが勝つ(が、誰しも死ぬ)という現実に対して愛の道を語りかけ、新約をもたらした。そして『「聖霊」=いつの時代のどこの人にも。心の中に直接働きかける』が機能する時代に変わったとしている。この世の終わりまで、この三位一体の時代が続くということなのだろう。その次に何が起きるのかは分からないが、科学が指し示すところでは、おそらくこの世の終わりはある。
私達は今三位一体の神の時代のこの世を生きているのだから、霊に頼りながら、愛と真実に基づく社会の構築に向けて歩むのが使命だと思っている。「あながたがたはこの世を良くするために生まれてきた」という言葉を信じている。少なくとも、専制と隷従の世界は望まない。
コメント
教会暦に関する訂正
三位一体主日ではなく、聖霊降臨節第N主日と言うのがプロテスタントでは正らしい。