統一教会のこと

私が統一教会という言葉で思い起こすのは原理運動被害者救済の動きと青山学院大学の神学部廃止問題である。

遠い昔の話だが、私の砧教会での実質的な指導者は故西村俊昭牧師で、主任担任教師問題を抱えていた。今回の問題で、過去のことを振り返っていると、東京高等裁判所 昭和51年(ネ)280号 判決が出てきた。1976年、私が16歳の頃に西村俊昭氏側が青山学院大学に勝訴した件が逆転敗訴となっているのだと思う。事件は1972年の神学部廃止に係ることで、「控訴人(大学)の行つた神学科廃科の措置は、専ら控訴人殊に大木院長と神学等につき見解の異なる神学科教員の学外追放を目的とするいわば擬装のものであつて、公序良俗に反し無効である。」が重要論点である。

当時は学生運動の終焉期にあたる。青学全共闘への軌跡 第3回は最近の振り返りの記事であるが、そこには以下のように書かれている(文中の強調は萩原が行ったもの)。

闘争開始/公然化以降、大木学長(院長)は自治会設立を決して認めず、一切の表現の自由を許さず、「私兵」右翼学生、暴力団、統一教会、生長の家学連、日学同を動員、渋谷警察署・公安・機動隊をもって反対闘争を圧殺することに終始する。

これに関連して

昭和五二年三月三〇日当時同学科に在籍した専任教員四名中、木田献一助教授はその後青山学院女子短大一般教育キリスト教学の専任教員へ、西村俊昭助教授は青山学院大学文学部フランス文学科の専任教員へ、関田寛雄助教授は同文学部第二部一般教育の専任教員へ、そして水野誠専任講師は同女子短大児童教育学科の専任教員へそれぞれ配転

という顛末を招いた。私にとっては、親世代の事件で、正直言って強い関心は持っていなかった。まだ洗礼を受ける前の話だ。

1981年に砧教会の創始者である浅野順一牧師が亡くなり、西村俊昭牧師が後を継ぐ。しかし「勤務先の青山学院大学では、教会の主任担任教師兼務を認めていなかった」ため主任担任教師代務者という例外措置で後継した(砧教会50年史P82)。しかし、青山学院大学はさらに「教員は教会の主任担任教師代務者の兼任を認められない。」(同上)と通告してきたことで、結果としては西村氏は代務者を降り、新たに招聘した副牧師を担任教師として登録した。改めて振り返れば「大木院長と神学等につき見解の異なる神学科教員の学外追放」が意図されていたということだったと考えるのが適当だろう。

ちなみに青山学院大学では、今も「キリスト教」を名乗る団体についてという警告を出している。約50年を経て今も統一教会の活動は続いているらしい。

既に、テレビでも取り上げられているが、岸元総理と統一教会(勝共連合)の繋がりがあり、その関係は安倍晋三との間にもある。政治献金が無かった、あるいは、極めて小さいものだったというのは恐らく事実だと思うが、関係団体にはワシントン・タイムズ(主要紙のワシントン・ポストではない)もあり、法律上問題のない形で役務の提供に対する支払いを行うこともできるし、信者を無償の労働力として提供することもできる(統一教会関連の企業と団体)。政治活動には金も手間もかかるから、従順に支持に従う無償の働き手は魅力的だ。また、その経済システムを理解して、信仰など無くても組織に入る人もある。政治秘書などの場合はダブルスパイ的な側面もあるだろう。かつては、国家神道で洗脳し、多くの国民を自らの意思で動く奴隷化したものの民間版と言ってよいだろう。もちろん、個々の宗教指導者の中には善意の人は多くいる。そういう人は統一教会にもいるだろう。根っからの詐欺師だけでは組織は持たない。教義のどの部分に注目するかで解釈は変わる。今回の山上容疑者の関連で2世問題も話題になっているが、統一教会の関係者を邪悪と見るのは適切ではない。そして、日本に限らないが、洗脳に落ちた人を政界も経済界も利用してきた歴史がある。

宗教は、信者の居場所を与え、心に強い影響を与えるものだ。私自身、キリスト教の信者で、今は教会に居場所のない状況だから客観的に見れば危ない状況にある。心の安定は行動に影響する。そして、経済的な安定は心の安定に大きく影響する。どんな宗教や教会、宗教指導者、信者も常に思い込みによる転落のリスクがあり、そのスキにつけこんでくる人や勢力は現れる。例えば、安倍氏がメッセージを送ったからといって、本心からそう思っていたとは到底思えないし、相互に利用しあう関係にあると考えてよいだろう。そういう関係は容易に精算できるものではない。

ナショナリズムはもう一つの宗教だ。愛国心そのものに問題は無いと思うが、排他性の毒が入ると手がつけられなくなる。

政治に関しては、透明性の低さが問題である。人間は食わなければ生きていけないから、本来ただの労働力など存在しない。どこかから金が出ているわけで、それは親の遺産や事業収入かも知れないが、税金を含め、他人の金で動かしているのだ。その金は権力者のものではない。逆に志が高くても金がなければ影響力を及ぼすことは難しい。公平性を確保するためには透明性が重要だと思う。事実を軽んじたり、不都合な事実を合法的に隠せるような制度は公平性を損なう。特定秘密保護法はもちろん、安全保障関連業務は隠し事のオンパレードだ。せめて事後に検証できる仕組みが織り込まれていなければいけないと思う。

既に公平など劣後させて良いと考えるようになっている人もいるだろう。増えているかも知れない。ナショナリズムに刺激されて、強いリーダーに依存するようになると事実に基づく判断が弱くなる。それは奴隷化の始まりである。統一教会を邪教で自分の生きている世界と別のものと考えてはいけないと思うのである。

青山学院大学の神学部(神学科)廃止は、自由と真理を求める声の弾圧で、強いものがより先にいくためには必要な行為だったのだろうと思う。学生運動は力に力で対応するようになって変質したという説もある。自由と真理を求めるものは、時間をかけてでも透明性の高い社会を作り上げていくことに熱心になる必要があるだろう。

短気になると力と力のぶつかりあいで分断を深めることになる。統一教会や、統一教会のようなものに対抗するには、冷静で長期的な姿勢が欠かせないと思う。少なくとも、安倍晋三とかトランプとかスーパースターなら解決できると思ってはいけない。花のある人への依存は、危険だと思う。

コメント

統一教会を利用して、自分が良いと思うことを進めたのであって、彼自身は恐らく信者ではなかっただろう。安倍氏に対しても同様だと思うし、現在中野氏と係争中の世耕氏も恐らく信者ではない。そこは問題じゃない。

信教の自由はどんな宗教であれ守られるべきだと思う。ただ、どんな信仰を持っていたとしても行動は法に従っていなくてはいけない。政治家であれば本来宗教法人を取り消すべき存在の存続の便宜を図った事実があれば、それは政教分離の原則に反した犯罪行為である。事実は明らかにされるべきだと思う。今後、宗教法人についても、政党側の問題も透明な形で事実を明らかにしてもらいたい。

私は、大木氏は基本的人権を侵害したと考えている。気に入らないから切ったようにしか見えない。判決は解釈としては成り立つ論理となっているとは思うが、別の結論を導く論理展開もできるだろうとも思う。また、彼の判断が原理研の青山学院大学での暗躍を助長し、その影響は今も犠牲者を生み出し続けていると考えることもできる。

危険なものでも、使えるものは使うという考え方は禍根を生むし、長く実害をもたらし続けることがある。