二年ほど前に幻想のコミュニティという記事を書いた。コロナ禍の今、改めてコミュニティという言葉が大きな意味を持つように感じる。
アイデンティティは自分と社会との関わりで得られるものだと思う。Wikipediaのデジタルアイデンティティでは、『ISO/IEC 24760-1は、アイデンティティを「実体に関する属性情報の集合(set of attributes related to an entity)」と定義している』と書かれている。例えば、同窓会であれば、1982年卒業生といった情報は私という実体に対する属性情報となる。学校法人あるいは、友人の保証がなければ正当性は担保されない。宗教であれば、信者の証明は教会または教団が行う。教会または教団の正当性は、例えば宗教法人として政府が認めることであり、あるいはバチカンが認定することかも知れない。電子証明書でも認証局という機関があり、ルート証明書という権威のもとに成り立っている。
物理的に人に会えない状況が続いている現在、従来のアイデンティティはかなり脆弱であることに気が付かされる。
給付金ひとつをとっても、自分にその権利があることを証明できなければ受け取れない。恐らく、ワクチンの接種に関してもマイナンバーがない人には不利益が降りかかるだろう。デジタル化が進めば、デジタルアイデンティティは身の回りのコミュニティの支持より大きな意味を持つようになる。電子証明書はかなり安全だと思っているが、破られる時は一斉に全部が破られてしまう危険をはらんでいる。また、実体=生体とデジタルアイデンティティの関連付けはどこまで行っても完全にはならない。何をもってその人が生存しているかを厳密に規定することは困難だ。どのタイミングで受精卵が人間として認められるのかも簡単には決められないし、ある種の自己決定権が有効であるかは禁治産問題を含めて簡単には決まらない。
デジタルの時代は、それを一定の条件下でYesかNoかを決めるルールを必要とする。現実は、確率的な事実に過ぎないと思う。
コミュニティが本当に生きているかどうかの判定も怪しい。恐らく全てのコミュニティは幻想だ。
「国民はイメージとして心の中に想像されたものである」はかなり確からしい。かなりあやふやなものに私達のアイデンティティは依存しているのである。ただ、ルールを決めさえすれば、ある種のアイデンティティは堅固なものになる。エストニアe-residencyのeIDを筆頭とし遥かに遅れている日本のマイナンバーカードまで、あらゆるデジタルアイデンティティはそういうものだと考えるべきだろう。やがて、ゼロイチではなく確率事象として現実を把握できる程度に人(あるいは政治家)が成長すれば、次の時代がくる。デジタル時代は、恐らく通り抜けなければいけないものだが、それは最後の時代ではない。
トップ画像は、Wikimediaから引用したもの。