ユダとは誰か

イエスとその時代に引き続いて、荒井献氏の『ユダとは誰か』を読んだ。

『イエスとその時代』から歳を重ねていることがあるのかも知れないが、かなり個人の意見が前面に出ていると感じた。読後このBlogを書くために参照した岩波書店の「この本の内容」は簡潔でわかりやすい。執筆動機はユダの福音書が公開されたこで氏の思いをある程度検証可能になったことにあるのかも知れない。

本文の最後の部分、かつ「この本の内容」の「著者からのメッセージ」にある

イエスの死刑確定後にユダが不自然死を遂げたという伝承や,彼の死を裏切りの「罪」に対する神の裁きとみなす見解が成立したのは,成立しつつある正統的教会が,ユダの「罪」を赦さず,自らの「罪」をも彼に負わせて,彼を教会から追放しようとした結果ではないか.

という主張に賛同する。特に正統的教会の「罪」をユダに負わせたという考え方に強く共感する。人間イエスは感情的にユダを許せずに糾弾したが、糾弾しただけでは終わらなかったのではないかという荒井氏の期待は私の期待と一致する。

一方で、実際はどうだったのかという点については十分に納得できるような論証にはなっていないと感じた。

この書籍に接してグノーシス主義、あるいは現状逃避的な思考方法についても考えさせられた。事実と人間界の現実、なぜ現実がそうなるのかを解明する道は限りなく遠い。しかし、その解明に向かって歩くことはできる。

荒井献氏はすでに亡くなったが、その歩みに敬意を表したい。ユダの復権は混乱をもたらすだろうが、ユダに一切の悪を背負わすのは、イエスを十字架につけるのと同じだと私は思う。その感情が人間の現実であるのは論を俟たないだろうが抗う自由はある。

教会も体制維持のためには日本基督教団砧教会のように事実に向かい合わない集団に堕ちることがある。それでも、批判の声に一定の許容性があったことで今なお存続しているのだろう。扇動者も繰り返し現れるが、道をまっすぐにせよという声も繰り返し現れる。各個教会の盛衰、悔い改めもあれば教団レベルの退廃、復活もある。2000年間希望は失われていない。

すべての生きるもののの存在が尊重される社会の実現に向けた動きは止まっていない。

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