新生活213週目 - 「ヤコブとヨハネの願い」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第29主日 (2024/10/20 マルコ10章35-45節)」。3年前の記事がある。マタイ伝20章に並行箇所がある。マタイ伝では彼らの母がイエスに願い出たことになっている。

福音朗読 マルコ10・35-45

35〔そのとき、〕 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 「この私が飲む杯を飲み」の杯は原語はποτήριον (potérion)で、英訳はCup。この時期にはパレスチナにワイングラスはあったらしい。Wikitionaryによれば、その後ゴブレットやワイングラスを示す言葉になっていったようだ。BSBだと“Can you drink the cup I will drink"となっていて、未来形となっている。福音のヒント(1)では「イエスは、 自分と同じ苦しみと死を引き受けることができるか、と問いかけているのです。」と解釈している。覚悟してこの世での最後のワインを飲み、殉教すると解釈しても良いだろう。それに対して、ヤコブとヨハネは「できます」と答えているので、これは信仰告白と同等と見て良いだろう。改めて考えるとかなり恐ろしい宣誓で、殺される覚悟で信仰を守ると言っていることにほかならない。体制におもねることなく無暴力で真実を守ろうとすれば、殺されてしまうかもしれないことを受容するという宣言となる。

ヤコブとヨハネは「できます」と答えなければ、栄光を受けることはできないと考えて「できます」と言ったのだろうが、イエスは「できます」と答えても栄光を受けられるかは確定しないと答えている。さらに、彼らが殉教する未来を予言している。将来は保証されていない。

他の人がどう考えるかはわからないが、1979年4月15日時点の私は、信仰告白と受洗を超えることなく救いは得られないと思っていた。その時は「できます」という以外の選択肢は存在しなかったのである。救われることは望んでいたが、それが死を招くことを想像はしていなかった。一方で、洗礼が救いの保証になるとは思っていなかったのも事実である。私にとって「できます」と宣誓することは必要条件であって、栄光を受ける十分条件ではない。それでも、自分の意思で宣誓し、洗礼を受けた。神と会衆の前で宣誓した事実は消えることはない。しかし、それが将来何を引き起こすことになるかは分かることではない。

私はイエスから「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言われたわけではない。しかし、本質的には聖書を読んでいる以上、そう言われる覚悟をしなければいけなかったことになる。ヤコブやヨハネと同じく、その重要性は認識できていなかった。

ヤコブやヨハネはイエスとともにユダヤ教に属する人間だった。彼らは洗礼者ヨハネに刺激を受けて、原点に戻って再生を期したと考えて良い。時間をかけて育ててきた律法(判例)にはどうしても汚れが混じってくる。また、単純に是非を判断することを許さない論争もある。イエスの神の国運動は時の権力者の腐敗を明らかにし、民衆の支持を得たことで弾圧の対象となった。イエスは磔刑となり、キリスト教はユダヤ教から異端認定された。力の支配の観点では、より有力なローマの力を借りて弾圧し、その過程で信仰を守った弟子たちの一部が粛清された。信仰を守ればユダヤ共同体から排除され、命を失うものも出たが、命を失わなくても苦しい思いをした人は少なくなかった。しかし、滅ぼし尽くすことはできず、やがて世界宗教としてユダヤ教をマイノリティ側に押しやるコミュニティとなっていく。

イエスは偉かろうがだめなことはだめだと言っていて、弱い立場であっても善い行いを神は見ていて貧富に関わらず栄光を与えると説いている。この箇所でも「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」と言っていて、それはイエスが決めることではないと宣言している。

洗礼を受けるという決断は、イエスの右や左に座るような栄光を求めるところまで考えるか否かは別に、救われる側においてくださいと願うことと同じだろう。ただ、請願には義務が伴うことを忘れてはいけない。

現代でも権力に伴う様々な問題は起きる。過去を振り返ると、私の教会生活は青山学院問題と隣接していた。直接的な関係があったわけではないが、故西村俊昭牧師は、真理を追求する神学部を維持するために活動していたが、結局維持は叶わなかった。その活動のために主任担任教師にならなかったことで、教会内でも批判を浴びていて、相当つらい思いをしていただろう。真実の道を追求することで迫害されることはある。しかし、そういう迫害は恵みだと思う。その迫害に耐えている内に、自分の栄光を求める気持ちは薄れていく。いつしか「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」生きる覚悟となっていく。もちろん、どの一人をとっても能力は限られるし、誤りも犯す。どれだけ努力しても青山学院神学部は守れなかった。客観的に見れば、守る側の人々には能力が足りなかったということになる。かつての弟子たちも個々に見れば敗北の連続であったが、長期で見ればその真実を求める活動は無意味ではなかった。

宗教に入信するということは、当初は救いを求めてのことで、思い切って一歩を踏み出していく。間違えて、邪教を選んでしまう人もいるだろうし、キリスト教の教会も牧師も真実を求める声を弾圧する金井美彦や砧教会のように腐る時は腐る。宗教改革も起きるし、同じ宗教の中でも真実に至る道の解釈は割れる。それでも、真実を求めていくことで、育てられていくのだと思う。この世の栄光を求めることは悪いことだと思わないが、自分が約束したことには忠実であったほうが良い。道を踏み外すよりは苦難を受容したほうが幸せに近い。個々が見えている世界には歪みがあって、信じていることが正しいかどうかを判断することは難しいが、よくよく考えて真実を追求したほうが良い。権力(上席を好む者)におもねってはいけない。

「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」を、受洗時の私に向けられた言葉と取る。分かっていない信仰告白も受け入れられたが、それには重い責任が伴うことに表面的でなく気がつくのは時間が経過してからだ。艱難に直面して、重い責任を伴うことを理解できたときに、あの時信仰告白できて良かったと思えたのは幸せなことだ。

画像は、Wikipediaの聖杯(英語)のページ経由で引用させていただいたもの