Withコロナは物事の本質を問うと思う。スポーツあるいは興行としてのスポーツイベントの本質は何か、音楽あるいは興行としての音楽イベントの本質は何かが問われることになる。コワーキングのオンライン化も模索されたり、リモートワークが強いられると仕事あるいは執務の本質は何かが問われることになった。
ビジネスという観点に立てば、客がいて、商品・サービスの提供者が存在するだけだ。スポーツイベントを見たい、音楽イベントに行きたいという需要があって、供給があれば成立する。しかし、新型コロナによって人が集まることのリスクが明らかになって、イベントが実施できなくなった。需要があるのに、供給ができなくなった。ビジネスとしては死刑宣告が下ったのである。
ビジネスが死ぬと、商品・サービス提供者側には金が入ってこなくなる。選手にも、イベントの興行に関わる仕事をしている人にも金が回らない。では、提供者はどうすれば良いのか?一番、単純な方法は、リスクを承知で従来のビジネスを回そうとすることだろう。程度の差はあれ、リスク対策を考えない人はいない。リスクなくうまく行ける方法が見つけられるなら、それに越したことはない。駄目なら商売替えを模索することになる。
時間と蓄えは、判断を左右する。今日、食えなければ、リスク対策もへったくれもない。飢えの前に綺麗事など通用しない。選択肢が見つからなければ闇営業も横行する。後ろ暗い所があれば、そこに巣食う反社会勢力が食らいつく。需要側の「不要不急」な欲望の抑制は供給側の生命線となるが、収入が細れば、生活者は「不要不急」な欲望を抑えることが生命線になる。現実は結構残酷だ。
無観客試合は時間稼ぎになる。前提は、やがてコロナは消えて、元の社会が戻ってくるという考えである。今は、昨年のようなイベントを開催するのはリスクが高すぎて行えない。でも、スポーツイベントはやめたくない。選手も関係者も食い詰める。まずは、継続しようという活動なので、その方向に動けば、自然と多少無理があっても再開に向かう。元の姿に戻すという出口が最初から決まっているからだ。ただ、元の社会が戻ってこないなら、その選択は破滅的な結果を生むだろう。5,000人規模のイベントに行けば、ほぼ100%COVID-19で苦しんで死ぬ人が1人は出るという状態になったら、持続可能性はない。
元の社会が戻ってこないという前提に立つと、全く違う絵が見えてくる。例えばリアル興行は今のビジネスのままでは成り立たない。安全性を高めるにはチケットを数倍高くするなどの方法が必要となるだろう。安全はただではないのである。
オフィスやコワーキングスペースで安全を確保しようと思うと、存在人数あたりの床面積は軽く数倍になる。一人あたりのスペース売上が数倍になるか、賃料や地価が数分の1に変わらなければ、持続可能性はない。論理的に考えれば、オフィスは無くせば良いと考えるのが自然だ。ただ、健康面も考慮すれば、ずっと自宅に留まっているような暮らしに持続可能性があるとは思えない。だから、自宅の外の居場所の必要性は無くならない。そこまで考え始めると、執務とは何かという本質に注目せざるを得ない。自宅の外の居場所が、良く整備されたコワーキングスペースになるかも知れないし、今の喫茶店やレストラン、あるいはホテルの延長線上にあるかも知れない。一方で、固定された場所の制約が小さくなってくると、旅行や移動の意味も変わるはずだ。家に幽閉された状況を永遠に続けられるとはとても思えない。ただ、社会の変化は簡単には起きない。既に様々な挑戦が始まっているが、まだ、何が起きるかはわからない。それでも、きっと新しい動きは既に起きているだろう。インターネットの普及と同じように、ある日、気がつくと全く違う社会に変わってしまっているはずだ。
もし、元の社会が戻ってこないなら、今まで常識だったことが何だったのかを考え直す以外に道はなくなる。実は、COVID-19に限らない。東北大震災も水害も地球温暖化も少し注意を払えば、元の社会など戻ってこないのはあきらかだ。いつも過去は戻ってこないことを前提に考えるしか無いのだが、それに耐えられないから被害は拡大してしまう。Change Yes We Can!を否定するとトランプ的なディストピアが来る。保守は亡国だ。新しい日常は自分たちで作り上げていくものだ。
警告:ここから先は教会の話なので興味のない人は飛ばして下さい
教会も変わる。場所としての教会は、信者の家で安全な場所だ。同時に、天国につながる場所で、そこにいることが、救いにつながると信じられている。しかし、オフィスと同じく教会堂に通えば病気になる確率が上がり死者を出しかねないことが分かっていれば、信者が教会に集まるのは馬鹿げている。では、どうやって救われることができるのか。
実社会では、科学が宗教より有意にある。事実に基づいて的確な判断をすることで、現実への対応能力は上がる。しかし、事実に基づいた損得の判断は冷酷でもある。弱者の居場所を奪う。その点(私の理解では)キリスト教は、無条件で居場所を保証してくれていて、社会的寛容性を求めている。聖書を読んでいると、どれだけ社会適応力が低くても、人間扱いされている気がする。それは私の救いだ。だから、できる限り妥協せずに良いと思うことを目指して進む気持ちを与えてくれている。もし、今後ずっと教会堂に通うことができないとしたら、どう信仰を守ることができるだろうか。コロナ前の接触自由な社会が戻らなければ、教会は、キリスト教は消えてしまうのだろうか。そんな事はないだろうが、同じ形には戻り得ないだろう。
今日7月19日、私が長年所属している砧教会では、限定的な会堂礼拝再開を計画していたが、感染者数の増大とともに再開を断念してオンライン礼拝で実施した。
砧教会は2020年3月22日に教会総会で閉鎖基準を定めて、3月29日からオンライン礼拝を続けてきている。ただ、一度だけ6月7日に会堂で説教がなされた事がある。その前の5月30日は再開基準を満たしていたのだが、牧師の判断で再開を一週間遅らせることとした。ところが、6月7日は新規感染者数が再び閉鎖基準に抵触する水準を超えていたため、すったもんだの上、牧師が会堂で説教を行い、オルガンが鳴り、少人数で会堂で礼拝が守られオンライン配信がなされた。私は、それは総会決議違反だと指摘したのだが、牧師は頑として認めなかった。その時点で私は教会の役員だったので、当日の礼拝後に辞任を求めた。随分時間がかかったが、6月29日に役員会の過半の賛同を得て辞任が承認され、今はもう役員ではない。
私の辞任が承認される6月29日より前に招集されていた書面による臨時総会が7月2日締切で投票され、3月の総会決議が廃棄され、新たな基準を示すことなく、再開判断が役員会に任されることになった。つまり、法治から人治に移行したのだ。辞任を急いだのは、その総会決議時に役員会に絶対に名を連ねたくなかったからだ。そして、7月12日に役員会で7月19日からの限定的な会堂礼拝再開が民主的に決議されたのである。意見は異なるが、組織としては民主的で正当な決議なのだろう。
イメージとしては、オンライン礼拝に参加できない方だけを迎えて可能な限りの安全策を施した上で会堂での礼拝をオンライン配信するのは、無観客試合に近いものだと思う。やがてコロナは消えて、元の社会が戻ってくるという前提で、後はいつ本格再開をするかという出口を決めたアプローチである。将来のことは、わからない。リスクを許容して再開しても犠牲者は出ない確率の方が高いし、リスクを犯しても参加したい信者は存在する。
私には会堂礼拝という集まりに参加することと、ホストクラブや夜の店に行くことの違いが分からない。そこでしか体験できない事があるからリスクがあることを分かっていても行くという意味では同じことだと思う。営業していなければ行けないからリスクは生じない。そして、教会は会堂礼拝が持てなくても活動を継続できなければおかしいと思っている。Withコロナは、信仰生活の本質も問うていると思う。
今日は、砧教会のオンライン礼拝に参加した。いつもどおり、牧師の説教は素晴らしかった。しかし、いつまで続けられるかは分からない。私の信仰の本質が問われている。