今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「待降節第1主日(2024/12/1 ルカ21章25-28, 34-36節)」。3年前の記事がある。マタイ伝24章、マルコ伝13章に並行箇所がある。今日の箇所は新生活217週目 - 「人の子が来る〜いちじくの木の教え〜目を覚ましていなさい」でマルコ伝版で既に書いてしまった。
福音朗読 ルカ21・25-28、34-36
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕25「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
34放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
3年前もタリンで書いていたが、今年もタリンで過ごしている。3年前はコロナがあけ切る前で、3週間弱の滞在、帰国後強制隔離にあったのを思い出す。今年は当地に来て19日目。日曜日は今日に加えてもう一回ある予定。毎週当地のメソジスト派教会の礼拝に出席させていただいていて、まだ当地では朝を迎えていないのでわからないが、恐らく聖書箇所はこの箇所となるだろう。
読み返して思い出したが、3年前には「どうして、アドベントの福音朗読にこの箇所を読むのかにわかには理解できない」と書いていた。あらためて考え直してみると福音のヒントに書いてある
「待降節は二重の特質をもつ。それは、まず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」(『典礼暦年に関する一般原則』39)
が腹落ちしてきた。昨週の王であるキリストとの関係も見えてくる。といっても、先週書いたことを訂正したいとは思わない。
若い頃は、人生の終わりは事故死や病死などの唐突なものか遠い未来のことだと感じていたので「終末におけるキリストの第二の来臨の待望」はかなり漠然としていて死と直接結びつくものではなかった。この年になってみれば、体の衰え、頭の衰えは感じるし、まだまだ頑張るぞと思いつつも、まあどう楽観的に見ても人生の半分は過ぎただろう、明日ではないだろうが、ひたひたと死が近づいてきていると感じる瞬間はある。特にこの新生活シリーズを書いている時には、終わりに向けて何を整えれば良いのか考えることは多い。終わりが近いと思うからこそ、自分以外の未来についても考えるし、それが日々の仕事や生活に影響を与える。私なりに時間を大事にしなければいけないと思うのである。ふと、昔の讃美歌463番が頭をよぎった。
楽観的かも知れないが、「時間を大事にしなければいけないと思う」ということは、福音のヒント(4)で述べられている「目を覚ましていることとは祈ることだ」とある意味で同じなのではないかと思う。砧教会2020年7月7日問題のように戦うべきと感じたことは諦めてはいけないと思いつつも、飯を食わねば生きていけないし、求められることがあればできる限り誠実に応えていきたいとも思う。
人それぞれ、与えられるものも違うし、内から湧き出てくるものも違う。それはそれで良いのだろう。
待降節第二週になると聖書日課は福音書の最初に戻る。「神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間」に焦点が当てられることになる。しかし、フレッシュな状態に戻ったとしても「いつも目を覚まして祈りなさい」という言葉が消えるわけではない。
※冒頭の写真はタリンのクリスマスマーケットのもの。華やかなのだが、私は同時に言いようのない物悲しさを感じてしまうのである。戦争や環境破壊の現実がなくなるわけではない。
コメント
EMKの降誕節第一主日
第二朗読は詩篇25章1-10だったが、第一朗読と福音朗読は予定通りだった。今日の英語通訳は若干不調だったようで牧師が何を言おうとしていたのかは良くわからなかったが、どうやら再臨の話にかなりストレスがおかれていたようである。最後に黙示録の最後の部分に触れていた。子供を祝う会が途中で入り、聖餐式があったので少し長めだった。
礼拝後に、ニュージーランドから1年間の予定で来ているBible Classの教師から声をかけられた。いろいろ聞かれたが、答えはいつも通り。特に予想外のことはない。一方、なぜエストニアに来たのか、ニュージランドではメソジスト派はどうなのかと尋ねてみると、その方はもともとニュージーランドでメソジスト派の教会で育って、モスクワで仕事していたが、こちらに来られたということが分かった。なぜ、モスクワからタリンに来たかは、ちょっと聞くの憚られたので、良くわからない。ニュージーランドでは教会に通うクリスチャンは5〜8%、カトリック、聖公会が優勢で、メソジスト派はクリスチャンの10分の1以下で全人口の0.5%程度という風に仰っていた。メソジスト派の教勢は世界的に縮小傾向なのだそうだ。
こちらの知り合いは、メソジスト派は歌ってばっかりいる宗派だとちょっと否定的に話していた。当地の主流はルーテル派なので、一定の納得感はある。まあ、かなり自由な感じの楽曲が多く、歌詞を訳して読むせいもあるだろうが、ちょっと浅い感じがしないでもない。