キリスト教

久しぶりに砧教会の会堂礼拝に参加した

リアル会堂礼拝にはオンラインで得られない体験が確かにある。集まっているという感覚があり、共にいるという喜びはある。牧師と対立関係にあっても、自分に嘘をつくことはできないし、逆に自分の誠実性に自信を持っているので、堂々と出席した。場を緊張させるのは申し訳ないと思うが、真実をごまかすわけにはいかない。

新生活126週目 - 「復讐してはならない、敵を愛しなさい」

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folio 51 recto with passage from the Gospel of Mathew
敵を愛せという教えは、それだけを取り出すと無理がある。ウクライナの人が今攻めてきているロシアの兵士を愛することは無理だ。しかし、捕虜を公平に扱うことはできる。自分が愛する人のために不正をしてはいけないし、自分が愛することのできない人だからといって不正な扱いをしてよいということはない。

新生活125週目 - 「律法について、腹を立ててはならない、姦淫してはならない、離縁してはならない、誓ってはならない」

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Sermon on the Mount (1877)
弟子たちは、イエスが「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。」と言ったと伝えたのだろう。それらの言葉が集められて文書化され、福音書はできた。うける話は繰り返され残っただろうし、うけない話は回数が減り消えていっただろう。その伝承の奥に何があったのかを多くの人が研究してきた。

エレミヤ書20章 「エレミヤの告白」

説教を聞いている間は、そこから何が得られるのかと集中できるのが良い。実際には、他ごとが頭に浮かんできて集中力が削がれることも多いし、説教者の状況次第でがっかりさせられることも少なくないが、そこに学びの機会は必ずある。

新生活124週目 - 「地の塩、世の光」

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Beautiful salt deposit at Dead Sea
今は日本基督教団砧教会役員会から2023年1月31日付けで「最終的なお便り」として貴方の現住陪餐会員への復帰は当分の間見合わせることとしますとの書面を受け取った私にとって、地の塩のメッセージをどう受け取るのが適切なのだろうか。改めて、私は不義と戦うことを宣言する。泣き寝入りしても良いことがあるとは思えない。

砧教会役員会から返信が来た

残念ながらゼロ回答だった。総会決議違反の事実があったかなかったに関する回答は含まれていなかった。常識的に考えれば、事実を明らかにすることはできないということで、不義があったという告発を論理的に否定できないということにほかならない。

新生活122週目 - 「ガリラヤで伝道を始める・四人の漁師を弟子にする・おびただしい病人をいやす」

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Brooklyn Museum - The Calling of Saint Peter and Saint Andrew (Vocation de Saint Pierre et Saint André) - James_Tissot
ガリラヤはイスラエル視点では辺境で、多様な人が行き来する街だった。エリコだってエルサレム神殿からはそれなりの距離がある都会の辺境だったが、サマリヤの向こうにあるガリラヤはほとんど異国だっただろう。辺境を蔑んではいけない。