キリスト教

新生活6週目 - 「幸福なるかな、心の貧しき者」

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今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、諸聖人 (2020/11/1 マタイ5章1-12a節)  。自由学園では文語訳聖書を使っていたので、「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者」というリズムが心に残っている。単純に感動を誘うが、ルカの並行箇所も見比べて考え始めるとかなり難しい箇所だ。さらに、この説教はマルコによる福音書には出てこない。その意味も気になる。福音のヒントでは、最後にこの箇所の最初にでてくる「心の貧しい」という言葉に改めて触れている。ルカでは付されていない「心の」をなぜつけたのか考えると像を結び始める。

新生活5週目 - 「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」

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テッサロニキ2018年
古い家を出て新しい旅に出るといって5週目。福音のヒントを参照して過ごすという意味では4週目。 年間第30主日 2020/10/25 マタイ22章34-40節。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」の「あなたの神」はどう解釈すればよいのだろうか。「隣人を自分のように愛しなさい。」は同じ神を信じているかどうかなどどうでも良いから別け隔てなく隣人愛に生きよと解釈することができる。 「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」という言葉は、セットで一つ、あるいは一つの真実を2つの側面から見たものと解釈したいと思う。「わたしの神」の正義は真摯に向きあっても、「あなたの神」の正義と一致するとは限らないが、誠意をもって隣人愛に生きよと言われていると読んだ。

新生活4週目 - 皇帝への税金

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テッサロニキの遺跡2018年
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」という問いに対して「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という答えが返されたという有名な話。すべての人に「あなたは何が本当に神のもので、何を神に返すべきものだと思っているか」という問いが与えられていて、同時にその問を無視する自由が与えられているのだと思う。「あなたは何があなた自身が目指すべき姿だと思っているか」と言い換えれば、その問は、誰の頭にも時折訪れる問いだ。たまには、無視し続けずに向かい合ったほうが良いだろうと思う。

新生活3週目 - 婚宴のたとえに学ぶ

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古い家を出て新しい旅に出るといって3週目。福音のヒントを参照して過ごしている。年間第28主日 (2020/10/11)はマタイによる福音書22章1-14節。今回は、4つの福音のヒントの中で、これに注目したいというものが見当たらなかったので、どれかにこだわるのではなく、福音書間の比較から学ぶ姿勢を踏襲した。私はルカによる福音書の並行記事の「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を招いてもまだ席があります」という書きぶりが好きだ。ルカの解釈では神はまず虐げられた人を大事にする。そして、虐げられた人を選んで救った後にまだ強者を招く余地があると主張していると取れる。そういう社会システムが構築できたら望ましいと思った。

(コワーキング)コミュニティ

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みんコワ
昨晩みんコワのみにアンに参加した。コワーキングJPの管理者交代に伴い活性化しているシーンに参加したかったからだ。75分楽しんでふと思ったのは、実は、コミュニティで対面は必須要件ではないのかも知れないという話だった。あっているかどうかは分からない。

新生活2週目

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古い家を出て新しい旅に出るといって2週目。福音のヒントを参照して過ごしている。第27主日の聖書箇所は『マタイによる福音書21章33-43』(http://fukuinhint.blog.fc2.com/blog-entry-853.html)。幸田氏が書いているように家の主人は神でで農夫達はユダヤ人、息子はイエスという解釈がキリスト教的な解釈としては自然だろう。5つの福音のヒントが提示されていて、私は5番目の「主人からゆだねられ、管理をまかされたものを、自分の所有物だと勘違いしてしまった」というメッセージが印象に残った。

最初の日曜日には砧教会の聖書箇所を参考にさせていただいた

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古い家を出て新しい旅に出るといって初めて迎えた日曜日。砧教会のFacebookページに「27日は《イエスの権威とそれを受け継ぐ弟子たち》と題して礼拝が守られます。聖書箇所「マルコによる福音書」6:1-13」とあったので、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」というフレーズで検索して、20本ほど説教や講話を読んで過ごした。古い家を出てと言ってみても、別に行くところがあるわけではない。その過程で、「福音のヒント」というサイトに出会った。

私の約50年間の砧教会との歴史はこうして終わった

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私は2020年9月20日から21日にかけて砧教会を離れる決断をした。驚いたことに、その瞬間からもうどうでも良いと思うようになり、今は、少しも砧教会とつながっていたいとは思っていない。同時に呪う気持ちも全く無い。この世ではよくある政治劇の一つで、それはそれだけのことだ。砧教会は事件を忘れて歩みを続ければよいし、私は去ればよいだけだ。破門にしたければすれば良い。白紙委任に票を投じた人たちも事実が知らされていたわけではないから罪はない。牧師、役員は知っていて強行したのだから、そういう意味では罪人だが、政治的にはもう二度目の総会で禊はすんだのだ。後は、憶えているのも忘れるのも自由だ。もう、別れてしまった道だから、前を向いて進んでいっていただきたい。

死と宗教

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私が最も印象に残っている死は福井真一郎君の死だ。もう40年以上が経つ。まだ高校生だった。その葬儀の時は本当に長蛇の列ができ、皆が泣いていた。当時の牧師も泣いていた。多分、私は泣いていなかったのではないかと思う。もちろん、寂しかったがこの世の人生を走り終わっただけだと思ったからだと覚えている。記憶は意外とあてにならないが、そう思っている。私は彼が亡くなってほぼ一年後に受洗した。彼の死は相当私に影響を与えたのだと思う。なぜ私が川を渡ってしまったのかは分からない。しかし、一度渡ってしまうと元の世界には戻ることはできない。恐らく、死と向き合うことによって、宗教は意味を持つ。そして、時代とともに宗教と結びついている価値観は変容する。古いものを脱ぎ捨てなければ新しい時代は到来しない。

言わなければよいのに

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Facebookで書いた記事を一部訂正して再掲。『【事実隠ぺいの代償】国益に反する厚労省のリスクコミュニケーション失敗《岩田健太郎教授・感染症から命を守る講義㉙》』という記事を読んで書いたものだ。ダイレクトには書かれていないが、事実をごまかすと最後は敗戦に至るという寓話である。ふと、パウロは生前のイエスに対する関心が薄かったという伝承を想起した。実際のところ、聖書を読めば読むほど、人間イエスはそうとうやばい。しかし、イエスの教えは革新的で核心的だと思う。パウロは偉人伝ではなく信仰の本質を説いたのだと思う。イエス伝、福音書を含む偉人伝は人の感動を生むが、それだけではパラダイムシフトは起きないのだと考えている。