書評:障害者の傷、介助者の痛み

心的外傷が他者への心的外傷の原因となり、不幸の連鎖を生む。傷ついた障がい者が介助者を傷つけ、傷ついた介助者が障がい者を傷つける。物理的な虐待も悲惨だが、心的外傷は伝染するのでむしろある種の病だと感じた。「障害者の傷、介助者の痛み」は、介助の現実を教えてくれるだけでなく、この病に関する研究書でもあると思う。

Twitterのタイムラインを足してみた

Twitterのタイムラインをサイトのトップページに貼って見た。

Drupalのカスタムブロックを作って

<p><a class="twitter-timeline" data-chrome="noheader nofooter" data-height="600" href="https://twitter.com/hagi60?ref_src=twsrc%5Etfw">Tweets by hagi60</a> <script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script></p>

を入れて、トップページだけに表示されるようにした。

ついでに、TwitterでシェアするリンクをBlog記事の下に表示するようにした。

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王を求めてはいけないと思う

最近、多くの地で民が王を求めているのだと感じている。

旧約聖書のサムエル記上8章(新共同訳)には「民、王を求める」という見出しがついている。民族指導者で預言者のサムエルが衰えた時に民が王を立てよと求めた話がでている。預言者なので、その求めに対して神に意見を求めると、「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。(中略)ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」と答えが返ってきた。その警告の最後は、「(前略)こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」である。

示唆に富むと思う。

民は、「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」と答え、自ら王の奴隷となる選択をした。

王の奴隷となる事を求める声が大きくなると、民主主義は機能しなくなり、公平という理念が意味を持たなくなる。代わりに起きるのは奪い合いだ。仁義なき戦いとでも言えば良いのかも知れない。

プロフェッショナルサービスは蜜のように甘い

ここ数年、いくつもの仕事を並行して進めている。

多少は儲かる仕事もあれば全く儲からない仕事もある。しかし、明確に顧客がある仕事はどれも楽しい。簡単に楽しいと言ってしまうのは語弊があるが、お客様との関係がうまく行っていようと、そうでなかろうと、顧客の顔が見えている仕事は短期的な成果がはっきりするので頑張りやすいのだ。

ただただやれば良いというタイプの仕事は私には回ってこないので、必ず真剣に考えなければいけない事ばかりである。

IT関連の仕事であれば、ある程度の土地勘があって自分の期待に対して9割は予想通りになる。挑戦気質なので95%にはならない。しかし、お客様のある仕事は基本的に100%でなければいけないし、お客様の期待に対して105%程度の成果を出し続けるのが望ましい姿である。自分の期待からレベルを設定するのではなく、お客様の期待を基準に考えないと、「すげー」と称賛される瞬間があっても長くは続かない。顧客のあるプロフェッショナルサービスは基本的に人間関係と同じなのである。

一方で、お客様の期待を基準におく習慣がついてしまうと、挑戦力が失われていく。限界に挑戦し続けなければ、見えない景色はある。人生はバランスだ。振れ幅が大きければ、喜びも苦痛も大きいが、それは蜜のように甘い。

愛の賛歌

 

コリントの信徒への手紙1の13章は結婚式でも良く引用される箇所でクリスチャンでなくても知っている人は多い。

4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

今週の礼拝で、9節からの「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」とのつながりの話が出て、愛をキリストと読み替えて読めばよいとの勧めがあった。

子どもの時はこの箇所を軽く受け止めていたのだが、最近は「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」が難しいと思っていたのだ。義も真実も視点を変えれば変わるからだ。自分が考える義も真実も不完全なものだから、キリストを倣う事はできても部分的なのは間違いない。

自然を征服するということ

『サピエンス全史』の「国家と市場経済がもたらした世界平和」の章に現在の地球上の全人類の総重量を概ね3億トンと推定し、家畜の総重量を7億トンと推定している。ねずみがどの程度の割合を占めるかはわからないが、一般の大きな地上の野生哺乳類は1億トンに満たないらしい。つまり、人間が生きていくための哺乳類の総重量が9割を超えているという話だ。

地球温暖化、核問題、人類は地球環境破壊の大きな脅威となっている。強い力には、それに相応する責任が伴うはずだろう。

誰もが安全で文化的な生活が送れるようになるという目標は素晴らしいことだと思う。近くは、差別が無くならなければ理想には近づけないし、遠くは人間以外との共存が可能でなければやはり目標達成できないだろう。

進歩とともに、あるいは退化、凋落とともに価値観を見直していかなければいけないのだろう。落ち目の時にも、共存共栄の倫理は高めていく以外に破綻を避ける道はないだろう。

Let’s Encrypt/Certbotの更新

February 13, 2019: End-of-Life for All TLS-SNI-01 Validation Support

という記事を紹介する警告メールが届いた。サーバーを複数のサイトで共有していると、他人のドメインの証明書を取得できる脆弱性があるという事で、自分が見ているサイトでは、直接的な影響はないと考えている。

しかし、Let’s Encrypt側は、そういう脆弱性を許容できないから、TLS-SNI-01プロトコルの終了とTLS-ALPN-01への移行が決定された。私は、certbotクライアント用いてきたので、そのアップデートだけで済む。2か月強毎に証明書の自動更新が走るから、対応しておかないと、更新に失敗する。失敗してからも証明書自身は1か月弱は有効だから、メッセージさえチェックしていれば、ほとんどのサイトで間に合うだろう。しかし、取りこぼしは出るだろう。今年の三月には「あれっ」と驚かされるサイトも出るに違いない。

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