キリスト教
新生活101週目 - 「客と招待する者への教訓」

この箇所は割と印象に残っている。単純にその通りだと思っていたが、改めて読み直すと疑問も湧いてくる。書いてあることがおかしいとは思わないが、平行箇所がないだけに筆者がなぜこの部分を書いたのかが気になってくる。
寄留者、王権批判、申命記
ゲールという言葉が気になって調べてみたらいくつか発見があった。
新生活100週目 - 「狭い戸口」

イエスは本当に神の国で宴会の席に着くという話をしたのだろうか。したとしたら、神の国で宴会の席に着くということは何を意味するのだろうか。死んだあとのことはわからない。しかし、誰ひとり取り残さない社会を目指すことはできる。目指せるのにそう行動できない人は多いと言われているととっても良いだろう。今の私は天国に行く人といかない人がいるという考えには立たない。
新生活99週目 - 「分裂をもたらす」

福音のヒントでは「この「火」は一方では神に反するものを滅ぼしつくす「裁きの火」です」とあるが、私はむしろ革命をイメージした。人を生かす火を静かに燃やそう、と思う。
新生活98週目 - 「目を覚ましている僕」

「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」は、私達それぞれが自分の富をどこに溜めようとしているのか問われていると受け取る必要があると思う。私は、閉じられたコミュニティに心があってはならないと考えている。
新生活97週目 - 「愚かな金持ち」のたとえ

「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」は決して簡単なことではない。一度手にした安定は、それが一切不正に関わらずに手にしたものであっても失うのは苦しいことだからだ。
アイデンティティについて
様々な人が語り尽くしたテーマだが、今の考えを書いておこうと思う。アイデンティティを意識することには長所も短所もある。ナショナリズムと宗教アイデンティティは特に影響が大きなものだと思う。
新生活95週目 - 「マルタとマリア」

この箇所を読む時、自分をマルタにおく人もマリアにおく人もいるだろう。マリアが正しかったと素直に読む読み方もあるだろうが、世の中がマリアだらけだったら社会は成立しない。全ての人がマルタでもマリアでもある。