キリスト教
新生活160週目 - 『「婚宴」のたとえ』
祭司長や民の長老たちが糾弾されているのは自明だが、同じ構図が現代のキリスト教会でも成立してしまうケースはあるだろう。預かった権威を自己保有の権力と考えてしまうのは、人間の性質としてかなり根源的なものなのだと思う。目を覚ましていて、本物を追求し続けるしか無い。
新生活159週目 - 『「ぶどう園と農夫」のたとえ』
「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」はマタイ伝だけに出てくる記述だが、この発言が本当にあったか否かでこの箇所の意味は大きく変わると思う。この記事では、本当にあったという視点で書いた。
砧教会は事実に反する書簡を出すほど傷んでいる
邪悪との戦いは体力を消耗するが、あきらめれば不義はただされない。
新生活158週目 - 『「二人の息子」のたとえ』
約束を破った弟は何をしていたのだろうか。彼にとってもっと優先順位の高い何かがあったのだろう。私は32節の「後で考え直して彼を信じようとしなかった。」が意味するところに興味がある。
新生活157週目 - 『「ぶどう園の労働者」のたとえ』
新共同訳では「天の国は次のようにたとえられる。」と切っているが、英語聖書を見ると、「天の国は〜の主人のようなものである」と訳している。日本語だと天の国は場所で、その支配者が神と想像するが、英語だと場所というよりその働きに焦点があたっているように読める。
新生活155週目 - 「兄弟の忠告」
今日の聖書箇所を読んで、私の闘争を新たな段階に進めることを決断した。