心地よい空間について考えさせられる

hagi2018/09/18(火) - 23:37 に投稿

WORK SIGHTに「シェアの概念を取り入れて、オフィスを脱・類型化する」という記事が出ていて、そこに

サービス側が提供しきらないことの面白さですよね。そこがシェアカルチャーの本質なんでしょう。明確に役割が区切られない状況を楽しむことで、シェアをポジティブにとらえることができるのだと思います。

という文章があって、ああそういう事かと得心した。

コワーキングスペースに魅力を感じるようになって5年。そして、森ビルの平河町ライブラリーの閉鎖と共に行き先を失って間もなく2年になる。

OAZO丸善は繁盛しているように見えた

hagi2018/09/10(月) - 14:10 に投稿

今日、WeWork丸の内で打ち合わせがあったので、OAZOの丸善に久しぶりに寄ってみた。

月曜日の昼食時間でオフィスワーカーと思われる人がたくさんいて繁盛しているように見えた。何より、ビジネス書も技術書も新刊がたくさん刊行されているように感じられたのに驚いた。近年、書籍は持ち歩きや処分に困るので、特別な理由がない限り電子書籍に頼っている。

気になって、丸善のページを当たって見たら、現在は丸善CHIホールディングスという会社で主な販売事業は丸善とジュンク堂だった。いつの間にか同じグループになっていた。決算発表資料を見ると、店舗・ネット販売事業セグメント売り上げは前年比99.1%、営業利益は売上750億に対して3億円の赤字となっている。図書館や大学等がターゲットの文教市場販売事業セグメントが売上600億、利益31億で、販売事業全体では1350億、27億の黒字となっている。決して楽勝な商売には見えない。

場所の記憶

hagi2018/08/23(木) - 15:44 に投稿

私は谷根千に住んでいる。越してきてから20年強が経つが、この地で育ったわけでもなく、5年前に前職を辞めるまでは、人生のほぼ全ては仕事がらみで地域の人達との接点は希薄であった。しかし、今ではこの地域に愛着を感じている。

前職を辞し、ユビキタスライフスタイル研究所という会社を命名するにあたって、ワークスタイルかライフスタイルかで少し悩んだ。その少し前に、東北大震災、鳥インフルエンザといった事象で事業継続性というテーマがビジネス界で脚光を浴びていたということもある。また、ニューヨーク赴任で妻に帯同を求めたことにより、場所に束縛されない働き方の可能性について思うところがあったこともある。もともとIT屋が商売として考える上では、ワークスタイル変革を相手にするのが良いのではないかと思っていた。同時に、所属しているキリスト教会で高齢化の波と終末期の生き方について考えさせられるものがあり、グループホーム型の共存空間についても関心があった。まずは、会社という組織から独立した働ける場所の可能性を探るところから始めて、これからの時代の生き方の提案で社会のお役に立ち、生計を立てていこうと思って結局ライフスタイルという名前を選んだ。

それから5年、様々な事を学んだ。

高架橋崩落事故からシステム更改と維持管理について考える

hagi2018/08/21(火) - 00:14 に投稿

先週イタリアはジェノバで高架橋崩落が起き、30人以上の方が亡くなった。このニュースを見て2012年に起きた笹子トンネル事故を思い出した。今年の3月に業務上過失致死傷容疑は不起訴になって一連の捜査は終結したとのことである。

モランディ橋は1967年竣工で約50年間、幹線道路を支えてきた。当初の設計に問題があったとする説もあるが、50年普通に使えてきたのだから、今後も使えるに違いないと思うのは当たり前の感覚だろう。しかし、過去5年間で5件高架橋の事故が起きている。イタリアの財政はかなり苦しい状況なので、維持管理強化も容易ではない。それでも手を入れないと、さらに事故が起き、安心して移動することもできない地域になってしまう。

インフラの維持管理は、それ自身では新たな価値を生まない。また、法的な耐用年数は、日本では橋梁で60年、トンネルで75年。つまり、60年で架けなおし、75年で再整備が必要な制度設計になっている。新たに橋を架けるのは、新たな利便性を訴求できるが、架かっている橋を架けなおすのは新たな付加価値を生まない。政治家にとっては、ちっとも嬉しくない話だが、行政から見たら、橋を落とさない責任は重い。維持管理に金を使うか、廃止に向けた手を打つしかない。税収が足りなくなれば、廃止するしか選択肢は無くなるのである。

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Activity Based Workingはもう少し追い詰められるまで注目されない気がする

hagi2018/08/08(水) - 15:55 に投稿

テレワークはやる気になれば、恐らく全労働の5割以上に適用できるだろう。そのキーワードとなると思われるのが、Activity Based Working(ABW)である。ただ、どうやらこのキーワードは、もう少し追い詰められるまで注目されない気がする。

テレワークが普及しない理由は「誰が何をやるか」決めてないからという記事がでていた。その本文に

仕事が定義されていないとテレワークなどを推進することが難しくなります。

このことは、総務省が平成22年にまとめた『テレワークの動向と生産性に関する調査研究報告書』に挙げられている、テレワークを導入しない理由の1位が「テレワークに適した仕事がないから」(69.0%)であったことからも裏付けられます。

このことは、テレワークに適した仕事が存在しないのではなく、業務を定義していないからテレワークに適した仕事として認識できないと考えることができます。

病院で感じたいくつかの事

hagi2018/08/03(金) - 18:13 に投稿

身内が、救急車の世話になって、かけつけて一日を過ごした。既に家族の一人が入院して世話になっている病院である。

救急車で運ばれてきた患者と家族は、病院の方々に頼るしか無い。診断が出るまで待つしか無いし、その対応についても信じるしか無い。同時に、もしその結果が好ましくなければ、医療関係者はその責任を追求される立場である。むちゃくちゃ高いストレスにさらされているに違いない。

しかし、ドクターが説明するときにはいつも笑顔だし、既に世話になっている家族の担当看護師は家族の顔を覚えていて、何を不安に思っているかを考えながら良い方法を提案してくれる。窓口締め切り時間直後に医療レンタルのカウンターに行くと閉店を取り消して話も聞いてくれた。プロだな、と思う。

プロにはいくつかの意味がある。きちんと採算に乗せるという面もあれば、ミッションを深く理解して出すべき結果を出すという面もある。食えなければ持続性がなく、使命を果たせなければ存在価値がない。

期せずして、昨日は、場所と時間に依存する働き手を書いたのだが、彼らは56%に属する人たちであり、輝いて見えた。

場所と時間に依存する働き手

hagi2018/08/02(木) - 12:20 に投稿

昨日、ある知人から、全労働者の中で現場で働いている人は5割を大きく超えているという話を聞いた。

店舗で働く人はもちろん、建設現場やビルメンテ、様々な保守サービス、学校や保育関連サービス、訪問セールスなども、その瞬間にその場所にいなければ商売にならない仕事は多い。私は漠然とそういった仕事は減っているのではないかと思っていた。コンビニでもレストランチェーンでもシステム化、分業化が進んで目に見える従業員の数は減っていると感じている。しかし、依然として5割以上の人は、その瞬間にその場所にいる事が重要な仕事に従事しているらしい。

考えてみれば、介護サービスなど年率で5%増えるような仕事もある。

現場の仕事も、上手にシステム化、分業化を進めれば、全体的な生産性は向上する。同じ付加価値を出すのに必要な総労力は減り、分業で業務内容の一部が移転されれば、一つの仕事に関わるフロント労働者の所要時間も減る。その分、相手にする仕事の量は増える。定型化された仕事をどんどんこなしていかなくちゃいけないという形になれば、辛さは高まるだろう。

モバイルワーカーという生き物

hagi2018/07/30(月) - 13:25 に投稿

モバイルワーカーは、なぜモバイルワークをするのか?

束縛されたくないから、とか、様々な理由はあるだろうが、私は新たな刺激を欲しているからというのが大きな理由なのではないかと思っている。

私の生き方に大きな影響を与えたのは、学術会議のイベントである。確か、最初は情報処理学会の全国大会で入社2年後の1986年の広島だった。昔のAIの時代である。会社の中での議論は十分刺激的だったし、上司は適当な領域を任せ自由な活動を許容してくれていたから、楽しく働いていたと思う。しかし、比較的近い分野で大学や著明な企業で研究活動を行っている人の話を聞ける場に私は魅了された。行った事の無い場所で特定の目的を共有する新しい出会いがうれしかったのだ。外部の人と話す事で大きな刺激を受け、自分の仕事にも多くの良い影響を与えた。さらに、上司の配慮で87年にミラノの人工知能関係の国際会議に派遣された。それが私にとって初めての海外経験であった。会議の議論そのものよりも、欧米だけでなくインドからも参加者があって、世界は広いと感じた。それ以来、機会を見つけては刺激を求めて動き回っている。

オウム真理教の13人の死刑の責任

hagi2018/07/28(土) - 17:59 に投稿

私は、13人の死刑に責任を感じている。

麻原彰晃が無垢だったとは私は思わない。まず間違いなく、人殺しはあっただろう。ほぼ確実に罪は存在する。

しかし、死刑囚を殺した責任は主権者にあること忘れてはいけない。自分は1億分の1と思う人もいるかも知れないが、国として人の命を奪った責任を他責とすべきではない。

私は、自分はイエスを十字架につけよと叫んだ群衆の一人だと思っている。それが私の信仰である。ものすごく大勢の人が、為政者の判断を支持した。その時代の価値観に照らして「正しい」判断、正義を支持したのである。いかに消極的であったとしても、結果としてキリストを磔にした責任は免れない。

イエスを十字架につけた体制側の人間は治安を守ったと称賛されて当然である。価値観の転換を防止して、国が壊れるのを短期的には守った。明日の破滅を守ったのである。

私たちは、命を奪って生きている。自分が食べる動物の命を奪うシーンを見ればショックを受けるけれど、食べなければ生きて行けない。動物の命を奪わなければそれで良いという事でもない。死と生は隣接しているのである。

その上で、私は死刑囚の命を奪わない選択が私たちにはあった事について注意喚起したい。

2年前の今日は紫陽花がまだ残っていた

hagi2018/07/24(火) - 13:06 に投稿

時折、Pathで写真を記録している。FBでもあるが、N年前の写真を提示してくることがある。今朝、届いたのが、岡倉天心記念公園で撮影した写真だ。

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今日、同じ公園で紫陽花を見ると、もちろん色が残っている花は無い。

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干からびた花の名残と、セミの抜け殻があった。

2年前に写真を撮った時は、7月20日過ぎでもまだ紫陽花らしさを残している花があったと思ったのを思い出す。今日、撮影した時は34度、体感温度は40度を超えていた。

まだ夏は前半戦。営業には向かない時期だと思う。